<kissin' Christmas>







50を超えた自分がこんなクリスマスを迎えるなんて、あの時は思ってもみなかった。
自分の性癖はもう随分と前から知っていたから、一生結婚する事はないだろうと解っていたし、こんな生業で自分の望む生涯のパートナーを持つなんて出来るはずがないことは、どれだけお気楽に考えたところでありえないと、考える事さえ放棄していた。
華やぎを見せる世の中に、人肌恋しいとか誰かとあたたかい時間を過ごしたいだとか思う事がなかったわけではないけれど、考えたところでそれが叶う事は永遠にないと思っていたから、僕にとってクリスマスはただの日常だ。今だってそう思ってる。そう思っているけれど・・・。
 
 











「自粛・・・してるんじゃなかったの?」


当然のように浅倉の目の前で微笑む男はさっき別れたばかりのその人だった。
未曽有のウィルスにすべての活動が制限された今年、まだ終わらない自粛生活にその男はすべての誘いを断っているとその口で言ったはずだ。
それは2人の活動においても同じで、細心の注意を払って密を防ぎ接触を少なくし、今まで当たり前に行っていたライブパフォーマンスもぎこちなく距離を取る事を強いられ、その時になって初めてこんなにも触れ合っていたんだと気付かされた。

もともとパーソナルスペースなどというものは存在しないかのようなこの男の振る舞いに、最初は戸惑っていたはずだが、いつの間にかその距離が当たり前になってしまうくらいには長い間共にいた。そのパフォーマンスがないことに心が耐えられないくらいには、この男を愛していた。決して悟られてはならないが、もう長い事ずっと苦しい片想いを続けている。

そんな男が何の前触れもなくいきなり訪ねて来るなんて、浅倉の人生に起こっていいはずがないと思っていた。まして今日という日に。


目の前の男は今日は比較的寒さが緩やかだとは言え12月の夜中に外出するような恰好ではなく、おしゃれ好きなこの男の事を思えばおおよそ誰かの家を訪ねるために出て来た恰好ではなかった。
うっすらと汗さえ滲ませてこちらを見つめるその姿は明らかにトレーニング中のそれで、そんな恰好でいきなり訪れた事に浅倉の思考は答えを見つけられずにいた。


「結構来れるもんだね。」


アハハと軽く笑った貴水は首に巻いていたタオルで顔を拭った。


「大ちゃん家まで行けるんじゃないかなって思って走ってみたら来れたよ。」


「走って、来たの?」


「うん。ちょっといつもと違うコース走ろうかなって思って、何となく走ってたら随分こっちに近付いたから、そうだ、じゃあちょっと行ってみようかなって。」


大したことじゃないような口ぶりで話す目の前の男を信じられない心地で見つめる。


「だって・・・どのくらいかかったの?」


「3、40分くらいかな。1時間はかかってないよ。」


この男のストイックな事は充分承知していたはずなのだが、浅倉は軽く眩暈を覚えた。そんな事には頓着しないその男は、流れてくる汗をタオルで抑えるように拭っている。

突然のこの事態に思考回路が停止する。
何か用があったわけでもない、約束をしていたわけでもない。さっきまで収録とは言え一緒にいた。しかも今日はクリスマスなのだ。自粛中の貴水にとってそんなイベントごとに意味はないのかも知れない。けれど思いを秘めた浅倉にはその事が意味を持ってしまう。
そもそも自粛中の貴水が何故自分になど会いに来たのか。共に過ごす人がいるだろうに。
それなのに他でもない自分のところに居る事に浅ましい自分は特別な意味を見つけようとする。一方では単なる気まぐれだと否定して、また一方では都合のいい展開を期待している。
頭の中を目まぐるしく思いが交錯して、結局浅倉の口から出たのは何とも間抜けな一言だった。


「あがって、く?」


何の意図があって来たのかは解らないが、それじゃあ、と追い帰す事なんて出来るはずがなかった。例えこの男になんの意味がなかったとしても浅倉にとって今日という日に一緒にいられる事は何よりのプレゼントのようなものだったから。


いつものように部屋へとあがってきた貴水は一通りのベルカとの挨拶を終えると、借りるねと洗面台へと向かった。意外と几帳面なこの男らしい気の使い方だと思う。
コロナになってから打ち合わせなどもなるべく自宅を使わなくなったとは言え、それでも数回は貴水がこうして浅倉の家を訪れる事はあった。その度にこうして断りを入れる男の姿に、それがこの男の育ちの良さから来る礼儀なのだと解っていてもお前とは他人だと突き付けられたような気がして、浮ついていた浅倉の心は急速に萎んで行った。


「あ、大ちゃん、こんな時間にまた食べようとして。」


さっぱりした様子でリビングへと戻って来た貴水は、テーブルの上に広げてあったさっきの収録の時のケーキや鳥の丸焼きを小分けにしてスタッフが持たせてくれたお土産を見て笑った。


「だって、早く食べないとダメでしょ?クリスマスなんだし。そう言うヒロは食べなかったの?」


「食べたから走って来たんだよ。」


そう言って明るく笑う顔に見惚れながらも浅倉は小さく落胆のため息をついた。
解っていたけれどこの男にとって特別な事でもなんでもなかったのだ。ただの気まぐれで自分の心を惑わすこの男が眩しさの分だけ悔しかった。
息苦しさから逃れるように料理に口を付けた浅倉を貴水の目がしょうがないなと言うように優しく見つめる。洗面台に行った時に顔も洗ったのだろう。前髪の先が少し濡れている。


「すきだよ。大ちゃん。」


急に脈絡もなく笑みを含んだトーンで告げてくる。浅倉の心臓はドクンと跳ねたが、この男のこういった戯言に付き合って鼓動を速める事の愚かさを浅倉は充分に知っている。


「はぁ?なにが?どうしたの、急に。」


「こんな日だし、ちゃんと言おうかなと思って。」


「何それ。クリスマスプレゼント?僕、貴水さんの口説きたい女の子じゃないですけど。」


ときめく気持ちをグッと抑え、気持ちを滲ませない素っ気なさで返す。見つめられている気まずさに視線を合わせる事は出来ず、食べる事に集中している素振りでケーキに視線を移した。


「大ちゃんに言ってるんだよ。」


柔らかい声はそれが真実この男の気持ちなのだと、何十年もこの声を聴いてきた浅倉には切ないぐらいに解る。けれどそれと同時にその真実の声は、浅倉の思うような気持ちとは違う事も。

貴水の恋愛遍歴を浅倉はずっと見てきた。最近は本人の言うように決まった相手はいないようだが、それでもそれは特定の1人ではないと言うだけの話なのだろう。遊びの相手までいちいち話さないだけで、これだけの男だ、その気になれば日替わりで相手には困らないのだろう。
そんな男の言う『好き』という言葉を本気にする方がバカだ。どうせそこらの食べ物や洋服などに言うレベルと大差ない。
解っていても喜んでしまう厄介な自分の恋心に、腹立たしさを紛らわすように大好きなケーキを頬張った。


「そんなに頬張ったらむせるよ。」


面白そうに笑う貴水に、人の気も知らないでと胸中で毒づきながら、1人分にしては若干大きめのケーキにフォークを突き立てた。


「ホラ、大ちゃん、付いてる。」


そう言って身を乗り出してきた貴水は、浅倉が意識を働かせる前に中指で左頬のクリームを掬った。浅倉が突然の事に驚いて思わず見返してしまった視線を外す事なく、貴水はその指をふっくらとした自らの口へと運ぶ。


「やっぱ甘いね。」


ニコリと微笑んでもう一度指をしゃぶる様に、先程貴水が触れた左頬が急に熱く感じられて、浅倉は逃げるように席を立った。


「く、クリーム、洗ってくる!」














 
 
パタパタとスリッパの音を響かせて浅倉は洗面台の方へ消えた。その耳も首筋も可愛そうなくらい赤くして。


今日、訪れたのには意味がある。と言ってもその意味が出来たのはついさっきの事なのだが。

浅倉とは長い付き合いだ。遠くはないとは言え上京して親元を離れた事を考えれば、既に親兄弟よりも長い年月を過ごしている。肉親よりも近しいところで今の自分の生活スタイルや思考、そう言ったものを把握しているのは恐らく浅倉なのだと思う。
その気安さからいつしかそれが当たり前となり、勝手に思い違いをしていたのは貴水の方だ。
ソーシャルディスタンスを保たなければならないこんな状況になって初めて、貴水は思いを共有したいその瞬間に、離れた位置から浅倉を見る事が増えた。
もどかしさが募った。クリアボード1枚を隔てたその距離が解っていてももどかしかった。そして気付いたのだ。自分の好意の在処を。

長年パートナーとしてやってきた相方に対する好意は、それだけではなかった。
この歳にもなれば自分の気持ちを押し付ける愚行も知っていたし、何より浅倉との仕事は今とても順調に進んでいる。そこに波風を立てたくはなかった。まして男同士で、という思いが貴水を思いとどまらせていたのだが、自分のフィルターが変わったせいなのか、そのつもりで見れば浅倉の寄越す視線はどこか熱を持って感じられた。

嫌いではないのだと思う。ただそれがどういった好意なのかは解らなかった。
何も気持ちを確かめずとも、自分が浅倉を好きでいることに変わりはない。それでいいと思った。
だがそう思えていたのは最初の数ヶ月だった。
触れたい。
存分に甘やかして、可愛らしく悪態をつく彼を傍で感じたい。触れられない今だからこそ、それは特別な意味を持つのかも知れないし、自分を満たしてくれるのかも知れない。
独りよがりのエゴだという事も解っている。だからずっと我慢していたのだ。けれど端々で見せる彼の表情や視線に抗いがたい情動を感じていた。
そしてさっきの出来事だ。浅倉がはたして貴水が思う意味を持ってその言葉を言ったのかは解らない。けれど滲み出しているその思いを無視する事は出来なかった。


『今年もヒロとクリスマス一緒に過ごせて良かった。』


帰り際、ふんわりと目元を和らげて浅倉はそう言った。そのまま別々の車に乗り込んでしまったのでその後の浅倉の表情は解らない。けれどあの一瞬の笑顔が貴水の頭から離れなかった。

貴水は解らなくなった。この関係を崩したくなくて踏みとどまって来たけれど、それが正解だったのだろうか。
控えめだが熱っぽく見つめられる度に気付かない振りをしてきたけれど、本当は浅倉の中にも燻った思いがあったのではないだろうか。
それならば・・・。

自分に都合のいい事を考えている。そんな事は解っている。けれど一度くらい確かめてもいいんじゃないだろうか。冗談で流してしまえる気安さで自分の気持ちを伝えるくらいならダメージも多くはない。彼にその気がないことが解れば、もしかしたらこの気持ちも落ち着く先を見つけられるかもしれない。そう思った。

走りながらそんな事を考えて、決心が鈍らないうちにとそのまま浅倉の家へ向かった。
あつらえたように今日はクリスマスだ。浮かれた事をしてもすべてこの日のせいにして、明日からは何もなかったように振る舞えばいい。だから今日1日だけは存分に浅倉を甘やかして、言えなかった本心を告げてみようと思った。何より浅倉を傍で感じ、触れたかった。

浅倉が居なくなったリビングで、貴水は先程浅倉の頬に触れた指にじんわりと温かさを感じていた。
何ヶ月ぶりになるのだろう、浅倉の頬に触れたのは。下手したら1年振りくらいになるのかも知れない。
たったあれだけの事でこんなにも心が満たされて行く。今、浅倉を抱きしめたりなんかしたら全身が打ち震えるのかも知れない。
逃げるように出て行った浅倉の事を考える。嫌がっているようではなかった。その事に背中を押されたような気がした。
貴水はもう一度決意を固めると洗面台へと向かった。
















 
 
心臓がうるさいくらいに鳴っている。さっきのアレは一体何だったんだろう。
貴水の距離感には大分慣れたと思っていたが、先程のアレは明らかに今までと違った。
酔っ払っているのだろうか。そう思いたかったがそんな状態で3、40分も走って来られるはずがない。それじゃあさっきのは何なんだ。

考えてみれば最初からおかしかった。突然訪れたり、脈絡もなく好きと言ってみたり、視線もそらさずにクリームを舐め取ってみたり。
貴水の行動が読めない。ナチュラルにそう言う事が出来てしまう男だという事は知っているが、それでも今日の貴水はおかしい。まるで恋人にするような・・・。
ありえない。男の自分相手にそんな事は決してあり得ない。自粛のしすぎで頭でもおかしくなったんだろうか。とにかくまともじゃない。

いろいろと理由をつけて否定してみても、本心が喜んでしまう。
好きな男に触れられれば嬉しい。それが例え意味をなさないものだとしても。視線を感じれば身体の奥がじくじくと熱を持つ。甘い思いは全身を満たして、この男を好きな事をいつだって切ないくらい感じる。
でもそれは一方的であるからそう思えるのだ。返される事がないからある意味安心して好きでいられる。嫌われる事はない代わりに、永遠に思いは成就しない。多くを望まなければその永遠は揺るがない。それなのに先程の貴水の行動はその永遠を壊そうとする。
どうして、と問えるはずがない。貴水にとっては恐らく何の意味もないのだろう。浅倉の後ろ暗い思いに気付いているかどうかは別として、貴水にはそう言った気持ちがないことは解っている。意味を持たせようとしているのは自分だけなのだ。
忘れた方がいい。余計なことは早く。


浅倉は乱暴に顔を洗うと入れたままだったコンタクトを外した。目の前の鏡を覗くと、そこに人影がある事にビクリとする。


「ヒロ・・・。」


動揺しすぎていただけかもしれないが、耳の良い浅倉が気付かぬうちに貴水がそこに立っていた。相変わらずその眼差しは優しく、浅倉はどこか落ち着かない思いで鏡越しに貴水を見た。


「落ち着いた?」


何に、と浅倉は咄嗟に思った。
落ち着いたかと訊ねるという事は、落ち着かなくさせるような事をしたという自覚があるという事だ。
では先程の行動は確信犯だったのか、そうと気付けば途端に浅倉は冷静さを取り戻す。

この男はライブでもその手の際どいパフォーマンスを繰り返していた事があった。貴水の思考回路がどうなっているのかは知らないが、浅倉の事を可愛いと言って憚らなかったり、特別だとのたまう事も一度や二度じゃない。そんな事に付き合っていたら到底身が持たない。
浅倉はいつの間にか出来てしまった切り替えスイッチをオンにした。
こうしておけば貴水の言動に心を揺さぶられる事は最小限に抑えられる。さっきはプライベートだからと油断しすぎたのだ。


「どうしたの、ヒロ。そんなとこ立って。」


いつもの距離感を保ちつつ、やんわりと貴水の横を通り過ぎる。
リビングに向かう自分の後に足音がついて来ない事を訝しんだ浅倉は、立ち止まって振り返った。貴水は洗面所の入り口に立ったままだ。
空白の時間が数秒流れる。口火を切ったのは貴水だった。


「大ちゃんさ、無理してない?」


「何が?」


「う・・・ん、何、って、ちょっと言い辛いかな。」


いまいち歯切れの良くない貴水に先を促したが、じっとこちらを見つめるだけで一向に先を続けようとしない様子に、浅倉はそのまま貴水を置いてリビングへ戻った。すると浅倉の姿が見えなくなったのを計ったように貴水のはっきりとした声が響いた。


「大ちゃん、オレの事、好きでしょ。」


突然だった。
一瞬、入れたはずのスイッチが切れる。
貴水のトーンは穏やかなそれで、決して冗談とは思えなかった。必死にスイッチを入れ直そうとするが、うるさい鼓動がそれを許そうとしない。
貴水がこんな事を言うはずがないのだ。仮に自分の気持ちがばれていたとしても、それなら尚の事こんな事を言うはずがない。気まずくなる事は目に見えているのだし、今までだって何食わぬ顔でお互いやってきた。藪蛇だ。
浅倉は振り返らずにそのままキッチンへと向かうと返答しなかった理由を作るようにミネラルウォーターに口を付けた。貴水の視線が近づいてきている気配を感じたが、振り返らなかった。


「大ちゃん。」


自分を呼ぶ声に動揺を見せないよう、そのままミネラルウォーターを飲み続ける。
お腹の中がタプタプと音を立てていたが、飲むのをやめたら問い詰められそうでペットボトルを傾け続けた。
しかし500mlはただ浅倉のお腹を膨らませただけで、現実の時間をしばし押し留めたに過ぎない。
空になってしまえばそれ以上の沈黙を守るのは難しく、悪あがきのようにのろのろとラベルを剥がし丁寧に分別をしてゴミ箱に入れてしまうと、もうどうする事も出来なかった。
再び貴水が名前を呼ぶ。


「大ちゃん。」


出来るだけ何でもない風を装いながら振り返る。貴水の視線は驚くくらい甘く優しい。


「大ちゃんは、どう思ってるの?オレの事。」


「どう、って・・・?」


さっきあんなに無意味に水を飲んだのに掠れてしまいそうになる声を浅倉は恨めしく思った。


「嫌われてはいないと思うんだけど、」


「・・・そりゃあ、もうこんだけ長い間一緒にいるしね。」


「じゃあ、好き?」


心臓が止まりそうな問いかけ。装った笑顔が引きつる。


「・・・まぁ、好きじゃなきゃ一緒にいないよ。」


「その好きは、どういう好き?」


決して問い詰めるような口調ではないのに身動きが取れなくなる。


「オレの気持ちは解ったでしょ?大ちゃんの気持ちを聞かせて。」


解ったって・・・。ではさっきのアレは冗談ではないと言うつもりなのだろうか。そんな素振り、今まで一度だって見せた事もないのに?

解らない。この男が何を言いたいのか、何を自分に答えさせたいのか。
浅倉はただ俯くだけで、硬く口を閉ざす。貴水の視線は変わらず浅倉を柔らかく見つめている。
苦しい沈黙はいつまで続くのか、待ち続けられる重苦しさ。けれど何かを言って彼を失う事に比べれば数百万倍マシだ。そのうちこの男の方がこの状態に飽きる。それまで耐えればいいのだ。

浅倉はただ黙っていた。貴水の視線は相変わらず優しく、どんな表情で自分を見つめているのか見なくても解る。
浅倉の大好きなあの穏やかな表情。いつの間にか大人の余裕のようなものを身につけた頼れる男の顔。


「大ちゃんは、答えてくれないの?オレが言ったことに。」


苦笑した貴水の声。


「どう思ってるか、聞きたい。」


真剣な告白に浅倉の胸は締め付けられる。

貴水の事が好きだ。ずっと告げたかった。
そんな男から嘘だとしても好きだと言われたのだ。嬉しくないわけがない。今だって本当はその頼れる胸に身を預けてしまいたい。
これが夢ならば、何も迷う事なんてないのに。

貴水の事を信じていないわけじゃない。唐突に言われたことが本当なら、全てを捨てることになったとしても彼を選ぶ。
けれど何もかも突然すぎる。こんな自分にだけ都合の良い事が起こるはずがないのだ。
今日の貴水の言動は辻褄が合っていない。いきなりやって来て、唐突にあんなことを言われても、どうしていいのか解らない。頭の中がぐちゃぐちゃ過ぎて何も考えられない。


「ぼく・・・ベルカのさんぽ、いかなきゃ。」


「へ!?」


いつもの行動、いつもの日常、変わらない毎日。
平穏でいい。何も起こらなくていい。特別な事など望んでいない。だから早く当たり前の世界に戻りたいと浅倉は思った。
今まであげることも適わなかった視線でおもむろにベルカを探す。その視界を突然貴水の両手に引き戻される。


「大ちゃん!」


視線を捉えられて再び身動きが取れなくなる。挟まれた両頬が熱い。


「もう二度と聞かないから、一度だけ答えて。オレの気持ちはさっき全部言った。ずっと好きだった事も、大ちゃんに触れられないのが辛い事も、大ちゃんを甘やかしたいと思ってる事も、ずっと黙ってようと思ってた事も、もうそれだけじゃ、」


「聞いてない・・・。」


浅倉は小さく首を振りながら信じられないというように呟いた。


「しらない・・・。そんなこと、一言も・・・。」


「え?」


「聞いてないよ、そんなの。」


「・・・アレ?オレ、言わなかった、っけ・・・。」


思考を辿る貴水の前で浅倉は小さく頷いた。


「ウソ・・・マジで?ホントに?」


浅倉の頬を挟んでいた両手で今度は自分の顔を覆い、めちゃめちゃ言った気になってた、と貴水はため息と共に小さく漏らした。その情けない声色に思わず浅倉は吹き出した。今までの緊張と思考の糸が解れた安堵感に笑いの波はどんどんと大きくなり、最初はバツが悪そうにしていた貴水も一度吹き出すともう止めようがなかった。
長年の付き合いが、いつもの空気感を引き戻すのは容易い。
ひとしきり笑いが収まると、再び優しい瞳で貴水が告げた。


「改めて、ちゃんと言うね。好きだよ、大ちゃん。」


「それってどういう意味?」


いつもの軽口のノリでするりと言葉が出た。
軽く笑った貴水は真っ直ぐな眼差しで浅倉を捉えた。ゆっくりと、穏やかなトーン。


「そういう意味で、好きだよ。あなたを大切にしたいし、甘やかしたいし、あなたの望むようにしてあげたい。許されるならこれから先、もっとそばにいたい。」


誓いのように告げられる言葉。浅倉の鼓動が再び早鐘を打ち出す。
信じていいのだろうか。慣れ親しんだ声音が真実を伝えてくる。
決して聞くことなどないと思っていた言葉はじわじわと浅倉を侵蝕していく。抗いがたいその力は理性も良識も突き崩して、自分を歯止めの効かない感情だけの生き物に作り変えようとする。
流されて行く恐怖。踏み止まろうと必死で戦う。それなのに・・・。


「オレには、あなたが必要なんだよ。」


真摯な声に感情より先に涙がこぼれた。見られたくなくて俯くと、必死で首を振った。


「・・・どうして。」


鼻の奥がツンと痛い。


「どうして、僕なの・・・?」


「大ちゃんだからだよ。」


「そんなの、答えになってない。」


「そうだね。」


優しい貴水の声。自分を誰よりも甘やかしてくれる声がクスリと笑う。


「大ちゃんもオレの事、好きでしょ?」


俯いたままの浅倉の短い方側の髪を耳に掛けてやりながら、貴水が確信を持った声でそっと聞いてくる。


「ねぇ、耳、赤いよ。」


笑みを含んだその言葉に浅倉の体温がますます上がる。貴水の長い指がその耳を隠させまいと、こぼれ落ちてくる髪を何度もかきあげる。


「うんって言って。大ちゃん。」


貴水の声が浅倉の答えを促す。
答えなんかもう出てしまっている。けれど最後の一言を口にする勇気がどうしても出なかった。嬉しいのと同じくらい怖くて、信じられなくて、それなのに貴水の想いを信じ始めている自分がいる。口を開いたらもうきっと止められない。
浅倉は下唇を噛み締めると、俯いたまま力なく貴水の胸を打った。胸を打ちながら歯止めの効かなくなった感情が段々と大きくなり、後から後から雫となってこぼれた。
貴水の腕が俯いたまま自分を打つ浅倉の腕ごと優しく抱きしめる。


「かわいい。」


初めてではないはずの腕の中で身動きが取れなくなる。


「ギュッてしていい?」


浅倉の答えを聞くよりも先に貴水の腕が浅倉を愛おしそうに抱いた。
貴水の体温に浅倉の体温が馴染んで行く。もう抗う事は出来なかった。
大人しくなった浅倉の背を貴水の手がゆっくりと撫でる。確かに感じる手のひらのぬくもりが現実である事を実感させていく。
浅倉は額を貴水の肩に預けると強張っていた身体の力を緩めた。


「これが答えだって、思っていい?」


耳元に貴水の声。浅倉はおずおずと貴水の背に手を回した。
あぁ、もうダメだ。これが嘘であったとしても構わない。こんな幸せな幻を手放したくない。
手のひらに触れたぬくもりは確かに現実のもので、自分ではない体温が自分を包んでいるのも現実のもので、浅倉はただ黙ってその心地良さに身を預けた。
スンと鼻をすする音を聞きつけた貴水が抱きしめていた腕を緩めると浅倉の表情を覗き込む。上目遣いに貴水を見上げた浅倉の目は赤い。キュッと唇を引き結び、照れくさそうな表情を見せる浅倉に貴水は低く呻いた。


「大ちゃん、マスクして。」


脈絡のない貴水の言葉に驚く。


「マスク越しならいいよね?」


「ちょっと、どうしたの?ヒロ。」


慌て始めた貴水に声をかけると、貴水は視線をあちこちに彷徨わせた後、


「キス、したくなっちゃった。でもほら、あの、飛沫とかさ、ダメじゃん。だからさ。」


飛沫飛沫と言い続ける貴水に浅倉の方が冷静さを取り戻す。


「ねぇ、もしかしてヒロ、テンパってる?それともいつもこんな感じなの?」


「そりゃあテンパるでしょ。大ちゃんのことなんだから。」


ムニッと再び両頬を挟まれて唇を突き出す格好になった浅倉に、キス顔しないで、と貴水が喚く。自分がさせといて何を言ってるんだと思いつつも、いつもの貴水の雰囲気にどこか安心している自分を感じていた。


「ヒロでもテンパったりするんだ。」


しげしげと貴水を見上げると困ったような笑みを見せて口を尖らせた。


「・・・カッコ悪いとこ、見せたくなかったのに。」


「なにそれ。今更じゃない?」


「それはそうだけどさ。こういう時くらい、カッコいいオレでいたいじゃん。」


ぶつぶつと恨み言を言う貴水は浅倉の良く知るいつもの彼だった。本気で拗ねている姿に思わず笑みがこぼれる。


「カッコ悪いヒロも僕は好きだけどね。」


「も?今、好きって言ったよね?カッコ悪いオレもって。」


「あ・・・。」


貴水の目が逃がさないと言うように浅倉を見つめてくる。貴水がその先の言葉を待っている事は解っていたが、何十年と言う事の叶わない片想いをしてきた口は重い。
チラチラと貴水の目を見返していると、またしても貴水が唸った。


「ねぇ、大ちゃん。それ、わざとやってる?」


「?何が?」


言われた意味が解らず問い返すと、貴水は大きくひとつ息をつくと額をコツンと合わせてきた。


「そういうのオレの前以外では禁止ね。罰としてチューします。」


「え!?ちょっと、なに、・・・っん!!」


鮮やかすぎる速さで浅倉の唇に貴水のそれが重なる。ふっくらとした自分のものではないその感触。
一瞬のキスは余韻だけをまざまざと残して浅倉から離れた。


「突き飛ばさなかったね。」


そう言って笑った貴水は心底嬉しそうな顔で、それでいて浅倉がそれをしない事を信じて疑ってなどいなかった。


「オレ、大ちゃんのこと、一生幸せにするね。だから、時間がかかってもいいから、大ちゃんもオレの事、好きって言えるようになってね。」


再び視線を合わせてきた貴水は解っていると言うように小さく何度か頷いた。


「大ちゃん、気持ちの方が溢れちゃってるもん。でもいつかはちゃんと、言葉にして欲しい。」


長年共にいた男はすべてを解ったような顔で立ち竦む浅倉の肩をキュッと抱き寄せた。
いろんな事が急に進みすぎて現実についていけない浅倉は貴水の言葉のひとつひとつをゆっくりと咀嚼していった。
解っていると言った。時間がかかってもいいと言った。一生、いつかは・・・、そう言った。
ブワリと唇に熱が蘇って来る。


「・・・も、・・・っかい。」


「え?」


「もういっかい、して。夢じゃないなら・・・。」


浅倉の言葉に貴水の鼓動が跳ねる。


「いいの?次は、大人の、するよ?」


掠れた声がセクシーだと思った。
浅倉を引き寄せる貴水の腕に力が入る。どこか地に足が付いていないような心地で浅倉は貴水を見上げた。
ずっと見続けてきたその姿。静かに視線を伏せる。


「ありがとう。好きだよ、大ちゃん。」


近付く気配に熱が伝わってくる。
今まで感じた事のない甘い痺れ。
この男をこれ以上ないほど好きだと思った。
 
 





END 20210314