<やさしい嘘>












あぁ、また触れている。

しっとりと汗ばんだ肌になつくように潜り込んだ腕の中。彼の指先が穏やかに襟足から差し入れられ、そっと髪をすく。

気付くと触れている。特別な二人だけの時間だけではなく、ふとした瞬間にも。
さすがに外部の人間がいる時には控えているようだが、身内のスタッフだけであれば無防備に触れてくる。
彼のパーソナルスペースの近さは今に始まった事ではないが、これはいささか度を越えている。
一体何だっていうんだ。


浅倉は面白くないようにさらに腕の中に潜り込む振りでその手を逃れようとした。


追ってくる指先に腹立たしさを覚えた。その指があまりにも当然のように慣れた仕草で髪をすくから。
立てなくてもいい腹を立てている。その自覚はある。


こういう事において自分とこの男とを比べること自体がナンセンスだ。
それこそ生まれた時からモテないなんて事を味わったことがないんだろう。


あまりにも慣れた手つきは考えなくてもいい穿った考えを引き起こす。
かつてどれほどこうして髪をすくような関係を繰り返してきたのか。
その手つきはあるべきところにあるといった安堵感を確認しているかのようで腹が立つ。
そしてたまらなく切なくもなる。
本当はこういうことが普通に出来る関係をこそ、望んでいるのではないのだろうか。


彼の為を思えばこんな不毛な関係は早く見切りをつけた方がいいのではないか。
自分とは違い、彼は望めば幸せな関係を手に入れることが出来る。
これで甘えたがりの男だ。かっこつけたいのと同じくらい、本心では甘えたがっている。
それを許してくれる懐の深い女性なら彼の容姿をもってすればすぐにでも見つかるだろう。
いや、容姿の問題ではない。彼ならば、きっと容易く見つけるのだろう。
ただ、自分という存在がなければ・・・。


浅倉はいよいよ切なくなってきたその手を掴まえてぞんざいに握った。



「触りすぎ。」



掴まえた手を強く握れば、目の前の男はわざとらしく顔をしかめてようやく髪をすくことを諦めた。その手はそのまま背中へと回される。



「残念。」



くすりと笑う男は浅倉の額に啄むようなキスを落とす。


この優しいキスも、何人目のキスなのだろう。



「どこかの女と間違えてんじゃないの。」



ボソッと漏らした小さな声はこういう時ばかり耳ざとい男の耳に届く。



「髪、触られるの嫌?」



「頭撫でられて喜ぶのなんて女だけだろ。そういうことは余所でやれって言ってんの。」



本心を悟られないようにぶっきらぼうに言い放つと、男は笑って一層強く浅倉を腕の中に閉じ込めた。



「本気?」



耳元でささやかれる優しいけれど強い声が浅倉の心を見透かすように問う。



「オレがこういう事したいと思うのは、大ちゃんだけだって知ってるくせに。」



「知らないよ。」



「オレが他にいけない事解ってて、そういう事言うんだから。」



「別に・・・行けばいいだろ。誰も止めたりなんかしないよ。髪の長い女が好みなら、どうぞご自由に。」



半ば強引に寝返りを打って男の腕から抜け出すと、途端に出来た距離の分だけすうっと空気が入り込んでくる。
その冷たさはさっきまで抱き合っていた身には虚しさを呼び込むように手酷い。
きっと背後で苦笑でもしているんだろう、男の気配を感じながら浅倉はギュッと目を閉じた。



「ウソつき。」



キシっと小さな音を立てて動く体温は再び浅倉を抱き締めて、伸びた襟足の隙間から首筋に温かいキスを落とした。















 

触れずにはいられなかった。彼の髪が哀しみの分だけ長くなっていた事を知っていたから。
まるで物言わぬ彼の代わりに、その伸びた髪が哀しみを訴えているような気がして。


春ツアーの最中に訪れた突然の別れ。彼は自分を責めていた。
忙しさの最中に失った命。
彼が愛情を注ぎ、彼を笑顔にさせ、決して作れない疑似の家族を作ってくれた存在は、その小さな命を桜が散るように散らせてしまった。
新曲の作成、リハーサル、そのまま続くツアースケジュール。
彼が自分を責めたところでどうしようもない時間だった。
小さな変化に気付く糸口を見つけられなかったのは決して彼のせいではない。
きっと彼も頭の中では解っているのだろう。けれどその一言で片付けてしまえるほど、単純な事ではなかった。
そして悔いている、ずっと。
口には出さないけれど。


彼の心があの春にどこか置き去りにされている事を知っていた。
そしてそれを断ち切れない長さと同じだけ、切れない髪は伸びていく。
何かを切り捨ててしまう事を無意識に恐れているのだろう。彼の髪はもう肩甲骨に届きそうな長さになっている。



咎めるように握られた手を彼の背中に回せばしっとりと汗ばんだ肌触り。
引き寄せる腕の中で悪態をつく彼。
臆病な彼は女の存在をちらつかせて頑なに最後の砦を守ろうとする。
もう既にそこに砦など存在していないのに、僅かな瓦礫を集めてささやかな砦を作ろうとする。
そんなところがたまらなく可愛らしいと思う。


全部を預けきってしまう事に慣れていないその不器用さをもどかしく思う。
本当はもっと寄りかかって欲しい。すべてを預けて安らいでほしい。
けれど彼の生身に出会えるのは腕の中に閉じ込めて窒息しそうな快楽を与え意識を手放すほんの一瞬。無意識の哀願が自分を呼ぶ、その一瞬だけ。


彼の性格が難しいことを知っている。
知っているけれど解って欲しい、何も纏う必要はないのだと。
剥き出しの心のまま、彼のすべてを愛してやまないのだという事を。


臆病な彼を暴いてしまおうか。
哀しみさえも上手く曝け出せない不器用なあなたを滅茶苦茶に掻き抱いて、閉ざした口を叫ばせてみせようか。
酷い男になって、あなたを暴いてしまおうか。


出来はしないのだ。
ただこうしてそっと抱きしめるだけ。
それほどまでに彼を愛してしまった。


臆病なのは自分だ。
無理強いをして彼を傷付けたくない。彼に嫌われたくない。
だからこうして、彼の哀しみに気付いていながら、伸びた髪の意味を知っていながらいつもと変わらない日常に抱きしめるだけ。
少しでも彼の哀しみが早く癒えるように。
彼が断ち切ることの出来ない哀しみの丈に触れながら。



「髪、伸びたね。」



くちづけた襟足にそっと囁けば頑なに背を向けていた彼の背中がほろりと緩む。



「切りに行く暇がなくて。」



「そっか。」



懐くようにその髪に鼻先を埋めるといつもの彼の匂い。そっとその甘やかな空気を吸い込む。



「罪悪感が薄れる?」



「・・・?」



「後姿だけなら女と変わらないって?こんなごつい女、いないか。」




笑う彼の傷付いたような背中。


あぁ、そうだったのか。この人の決してなくならない砦はそのせい。
オレが髪を撫でてしまう理由をそんな風に感じて。


何処かでいつも引け目を感じている。その事は否定しない。
自分も彼も、純粋に愛情だけで物事がクリアにはならない事を知っている。
けれど、だからこそ純粋に愛情だけであなたを愛しているというのに。
他でもないあなただから、愛しているというのに。


腕の中の彼を一層強く抱きしめる。この深い想いが伝わればいい。



「好きだよ。大ちゃん。」



















 

愛の言葉はいつもどこか遠い。
その言葉に嘘はないと解っている。ほんの一瞬でもその言葉は本当の事で、だからこそこの男は口にするのだろう。
それを疑った事はないし、信じてもいる。
けれどそういう事ではなく自分にとって愛の言葉は、いつもどこか遠いのだ。
始まりがあれば終わりがあるのと同じように、出会いがあれば別れがあるのだ、必ず。


この想いは、終わりに向かって進んでいるのではないかと思う事がある。
愛を誓った次の瞬間にすべて跡形もなく消えているような。
この自分を抱きしめている腕も消え去って行くのだろう。まるでそれが当然の事のように。


永遠なんて存在しない。だから人は永遠に憧れ、永遠を誓うんだろう。
永遠があるのは心の中だけ。密かに思い続ける、そこにだけ永遠がある。
けれどその永遠でさえ、人の心は熱い熱さえ深く沈めてしまう事だってある。
だからやっぱり、永遠なんて存在しないのだ。



首筋に落とされた言葉を心の奥に刻みながら聞かなかった事にする。


永遠を作る言葉がまたひとつ煌めきながら刻まれていく。
この男の言葉はいつだって心の奥底を震わせるように響く。
愛しているのだと思う、泣きたいほどに。
多分口に出来る思い以上に、その思いは深いのだろう。だから終末の訪れに怯えている、きっと。


これ以上どうしたら好きになれるのか解らない。
けれど理解よりも先に気持ちはその一秒前を超えて行く。
泣きたくなるのはいつもこの瞬間なのだ。自分の不可解さに泣きたくなる。



「女の人ってさ。」



背中から聞こえる男の声を黙って伺う。



「願掛けで伸ばしたりするじゃない?髪の毛。大ちゃんも願掛け中なの?」



「そんな訳ないだろ。女じゃないって言ってるじゃん。」



「そっか。てっきりオレとの事、願掛けてるのかと思った。」



「バッカじゃないの。」



呆れるような事をサラリと言ってしまえるこの男が悔しい。
願を掛けたくらいで永遠が手に入るならいくらでも掛けてやる。そんな夢を見れるような思いではないのだ、もう。


失えないと気付いてしまった。だから求めてはいけない。いつなくなるか解らないものだから望んではいけないのだ。
終わりはいつだって突然やってくる。
そう、突然に。


底知れない孤独を感じて浅倉はぎゅっと自らを抱いた。
いつかは失うだろう背中の体温が切ない。



「大ちゃん。」



咎めるような声がする。けれど自分はそれにこたえる術を知らない。




















 

頑なに背を向けている彼の肩に手をかけた。
じんわりと伝わっていくこの熱が、彼の孤独を癒してくれればいい。


抱きしめたぬくもりは近くにあってこんなにもあたたかいのに、あまりの遠さに哀しくなる。
大丈夫、オレはいつだってここにいるから。そう思いながら抱きしめてみても一体どれほど彼に伝わっているのだろうか。



「痛いよ。」



ぶすくれた声で告げられた言葉に慌てて手を放す。



「そんなに憎しみ込めて握らないでくれる?」



冗談めかして腕から逃れようとする。
それほどまでに彼の孤独は深いのだろうか。彼の傷は、癒えないのだろうか。


愛情を惜しげもなく注ぐ彼だからその喪失感は大きいのだろう。
けれど哀しみに繋がれたままの彼を見ているのは辛すぎる。
まるで楔のように、その髪は彼を哀しみへと繋ぎとめる。



「ねぇ大ちゃん。」



丸まった背中にそっと告げる。



「こっち向いてよ。」





















 

彼が呼んでいる。それでもどうしても振りむくことは出来なかった。
さっきまでしていた事を思えば今の顔を見られる事なんて大したことではないはずなのに、何故だかこの顔を見られたくなかった。


優しい声に涙が出た。
何気ない会話にすがっている自分がいた。
例えこの先別れが待っているとしてもこの男を失いたくなかった。どうしても。


突き放そうとしてもこの男の優しい苦笑の前にその思いは脆くも崩れる。
切り捨てる事なんて出来やしない。
もしそれで自分が窒息するとしても、この男のくれたすべて、くれた言葉も、触れたこの指も、何もかも、埋もれて死ねるならそれでいい。
きっと自分は最後にはこの男のくれたものだけを選んでしまうんだろう。
それでも、優しいこの男は他のものを同じようにたくさん選ぶ事を教えてくれた。
宝物をいっぱい持っていいと、欲張りになって多くを望んでいいと。
同じように喜び、同じように慈しみ。
だから捨てる事が出来ない。
手にしたものが溢れても、置く事が出来ない。



「オレはね、髪の長い大ちゃんも好きだけど、短い大ちゃんも好きだよ。」



小さな微笑みと共にささやかれる言葉。



「髪はさ、人の思いを見つめて伸びるんだって。嬉しい事も哀しい事も、全部知ってる。
思いが重くなった時は、髪を切ったらいいんだよ。そしたらちょっと楽になれる。気休めかも知れないけどね。」



薄暗がりの中であたたかい視線が自分を見つめているのを感じる。
どうしてこの男はこんなにも優しいのだろう。



「何でそんな事言うのさ。」



胸の奥がツンと痛い。



「だから、オレは髪の長い大ちゃんも好きだけど、短い大ちゃんも大好きだってこと。」



そう言いながらするりと優しく抱きしめてくる腕があったかくて、どうしようもないくらい切なくて。


この男は知っているんだろうか。
自分でも持て余しているこの込み上げてくる涙の訳を。
やり場のないため息の訳を。
無意味な八つ当たりをしてしまう、その理由を。



「ねぇ、こっち向いてよ。」



甘えるような優しい声で自分を呼ぶ唯一無二の声。


この声に委ねてもいいのだろうか。
置くことの出来なかった思いを、この男に預けてもいいのだろうか。



「ねぇ大ちゃん。」



振り返る事は容易い。けれど振り返ったらもっと、この男を失えなくなる。それが痛いほど解っている。
それなのに。
肩越しに覗く男のくすぐったそうな笑顔に視線は奪われたまま。
頬に触れるだけのキス。
もう抗えない。



「髪、触ってもいい?」



細められたやわらかい瞳がじっと見つめている。
今まで許しもなく好きなだけ触れていたくせに。


答えを待つ男の瞳はどこまでも優しく、はっきりと頷く事はやっぱり出来ず、瞼を伏せるだけで答えた。
微笑みに形どられた唇が羽音のように軽やかな音を立てて額に止まる。
差し入れられたその指は愛おしむように、労わるように、そこに立ち止ったままの思いもすべて、滑らかに梳いていく。


柔らかな静寂が流れていく。
込み上げてくるものを誤魔化すように男の腕の中に潜り込み、これ以上何も零れないように強く強く唇を噛みしめて目を閉じた。





 

END 20140924