「大ちゃん。」
呼ばれた声に振り返ると、そこにヒロが立っていた。
「身体に悪いよ。」
そっと差し出されるショール。背後から抱きしめるように肩に掛けてそのままでいる。
風が吹く丘に二人、木々のざわめきを聞いている。
何も無い場所。誰も来ない所。何かから逃れるようにここへと移り住んだ。
だけど穏やかに過ぎて行く日々はあまりにも切なくて、出来る事ならこのまま ・・・。
あの日、考えもしなかった残酷な宣告。
“大変残念な事ですが・・・。”
そう告げた医者の言葉を打ち消すように叫んだ。
どうにもならないのだと理性のどこかで認識してはいても、感情がそれを許さなかった。
その事をいつから知っていたのか、彼はただ一言、“ごめんね。”と言った。それはもう哀しいほど澄んだ瞳で。
そんな彼にオレは何ひとつしてあげられなくて。
だからせめてこうやって、そばに居ることしか。彼の残り少ない生を見つめている事しか 。
腕の中の温もりが愛おしくて涙が出そうになる。今、この腕の中にいる彼が、刻々と死に近付いているなんて。
もし、代われるのならオレが ・・・。
切望しても変わらない目の前の現実。
このまま彼を失ってしまうなんて。
どうしたらいいんだ、どうしたら ・・・。
「何、見てるの?」
何かをじっと見つめている彼に聞いた。
「星。」
ベットの上に上半身だけ起こして、窓の外を見つめたまま言う。もう空は闇が広がり、輝いているのは彼の見ている星々ばかりだった。
とても楽しそうに、とても幸せそうに彼は見ている。
ここに来てから彼は自然をよく見ている。そんな彼だから、ほんの小さな変化でも彼にとっては新しい話題となる。
まるでもうこの世のものではないみたいに、その白い肌は益々透き通るように白く、痛々しいほど細くなっていた。
それでも彼は笑んで見せる。以前よりも穏やかに、どんなときでも笑んでいるのだ。
それはきっとオレに心配かけない為なのかもしれない。
でもオレにはそんな彼の微笑みがとても苦しかった。
いっそ辛いなら辛いと、思いっきり叫んでくれた方が良かった。苦しいなら苦しいと、死にたくないと泣いてくれる方が良かった。
こんなにも静かに、総べてを受け入れたように微笑まれると、つくづくオレは無力なんだと、彼の為に何もしてやれない自分を恨めしく思うより他にない。
こんなにそばに居るのに、彼の痛みを分かち合えない。
彼の為に何も、してやれない ・・・。
「ヒロ。」
気付くと彼が呼んでいた。
「僕のシンセ、取ってくれる?」
「あ・・・あぁ・・・。」
ここに来てからも片時として離した事のないこのシンセ。もうこのシンセでさえ重くて、こうして膝の上に乗せるのも辛いと思うのに、彼は音を作る事を止めようとしない。
「ねぇヒロ。こんなのどうかな。」
嬉しそうな顔をしてキーボードをたたき始める。
彼の指の間から次々と音が生まれて来る。出会ったあの時からずっと、いつもいつも新鮮な音が。オレはそれについて行くのが精一杯で、いつも彼の感性に驚かされた。いつもひとつもふたつも先の事を見ているこの人が、ここまでオレを引っ張ってくれていた。
白い頬に少しだけ赤みがかかる。嬉しくてたまらない昂揚感が彼の頬を染めている。
こんな表情を見ると少しだけホッとする。
まだ大丈夫だ。この人はこんなにも元気だ。
こんなにも音楽が好きで、こんなにも才能があるのにどうして。神様はなんて不公平なんだろう。
静かで優しいメロディがゆったりと流れる。汚れのない澄んだ旋律は、、まるで今の彼のようで・・・。
哀しいと思うのは、彼の死をどこかで受け入れている自分を見つけてしまう事であって、そんな自分をとても情けなく思う。
彼に諦めるなと言っておきながら、当の自分がもう諦めている。
だからこそ無言で笑んでいる彼が自分を責めているように思えてならないのだ。自分の中のやましい部分が総て見透かされてしまいそうで・・・。
「ヒロ。この曲、こうしてインプットしておくからね。もし、良かったら、使って。」
彼は今弾き終えたばかりの曲をサンプルHIROと書かれたフロッピーに入力した。
こうしてもう何曲このフロッピーの中に入れたのだろう。オレが機械に詳しくない事を知っているのに、彼はいつもこう言う。もしかしたらそれは彼の見せたささやかな生への執着だったのかも知れない。
「なんか、ちょっと疲れちゃった。」
苦笑いをしてみせる彼の顔は青白く、弱々しかった。
「ムリするからだってば。早く、横になって。」
手をかして彼を横にさせる。
彼はこんなにも軽かっただろうか。
こんなにも細かっただろうか。
「ごめんヒロ。また心配させちゃったね。
でもこうしているとすごくイメージが湧いて来るんだ。自分でも信じられないくらい。
それにね、少しでも多く、曲を作っていたいんだ。ヒロの為に。」
まるで身辺整理でもするかのように次々と曲を書き続けていく彼。もうさして時間がない事を彼自身が一番良く知っているのかもしれない。
どうしたらいい。どうしたら ・・・。
どうしたら彼をこんなにも苦しませずにすむのだろう。
大丈夫だよなんて事は言える筈がない。自分の事は自分が一番良く解っている。
気休めにもならない残酷な言葉は、もう何の意味もない。
それならばせめてこの穏やかな日々が少しでも長く続くように ・・・。
「大ちゃん、そろそろ眠った方がいいよ。」
膝の上の重そうなシンセを受け取りながら言った。
「そうだね。もうこんな時間なんだ。」
静かに微笑みながら彼は枕もとの時計を見た。長針と短針が寄り添うように夜の深さを表していた。
「お休み、大ちゃん。」
「うん。お休み、ヒロ。」
そう言うと彼は静かに目を閉じた。そんな彼にそっと布団を掛けると博之はその部屋から出て行った。
「起きて平気なの?大ちゃん。」
うたた寝から目覚めると大介がベットを抜け出し、どこかへと消えていた。歩き回れる状態じゃないのにと必死になって彼を探すと、彼は草原の中に立っていた。
小さな木がひとつ、彼が涼めるだけの木陰を作り出していた。
「平気だよヒロ。今日は何だか気分が良いんだ。」
静かな微笑みを返して大介が言う。
「でも・・・。」
「大丈夫。それにね、こうしてるとすごく気持ち良い。地球って生きてるんだなって。当たり前の事なのにね。」
そう言いながら笑う彼はあまりにも陰が薄くなっていた。
この所ずっと寝込んだままで、起き上がる事さえままならない時の方が多かった。そんな大介はいつの間にかこんなに線が細くなっていた。
「ヒロもさ、この所僕のせいで寝てないんだろ。少し眠った方が良いよ。寝れる時に寝とかないと、ヒロのが体壊しちゃう。」
木の幹にもたれかかりながら言う大介に博之は苦笑いを返した。
確かにこの所眠っていない。
彼の事が気になって横になっても目が冴えて眠れなかった。だから彼の状態が安定したと思ったらホッとしてうたた寝なんかしてしまったのだ。
「 ・・・解った。オレもこっちに来る。大ちゃんのそばじゃなきゃ安心して眠れないからね。」
先程の突然の失踪に釘を刺すように軽くにらんで博之は言った。
「読みかけの本があったんだ。それ、取って来る。ここにいてよ、大ちゃん。」
「解ってるよ。僕のシンセも持って来てくれると嬉しいな。」
走り出した博之に向かって声を掛けると、彼は片手を挙げてそれに答えた。
だんだんと小さくなって行く彼の背中が風に吹かれて見えなくなる。
見上げると柔らかい日差しがこの世界を包み込んでいる。すり抜けて行く風は総てのものを清らかにさせて行く。
久し振りの太陽はあまりにも眩しすぎて大介は目を細めた。
何もかもが愛おしい。
こうして見る世界はなんておおらかなんだろう。息をしていられる事がとても嬉しい。
こんなにも凄い所に今、自分は存在している。そう思うだけで胸が躍る。
これほどの幸せは他に無い。
こんなにもすばらしい世界。
そしてかけがえの無い人。
自分だけを見つめてくれるその眼差し。
屈託のない笑顔。
輝きを放ち続けるその魂。何もかもが夢のようで。
!!
突然の激痛に大介は胸を押さえて崩れ落ちた。
何・・・!?
息を吸い込もうとして初めて呼吸が出来ない事に気付く。
締め付けられる喉の奥が焼けるように熱い。
声が出ない。頭にもやがかかるようにだんだんと意識が闇に吸い込まれて行く。
ヒロ・・・!!
懸命に叫んでも届かない。
喉の奥が微かにヒューヒュー鳴るだけで、音にならない。
やたら速い心臓の音が平衡感覚を失わせる。
冷たい汗が全身から噴き出して来る。
死。
突然大介の脳裏にそこだけ鮮明に浮かび上がる言葉。
どうして・・・!?
草の中に突っ伏したままの姿勢で身動きが取れない。どこもかしこも総ての細胞がぷっつりと切れたように動かない。
何故だか涙が出た。
ヒロの事が急に頭の中を駆け巡って、届かない声で叫んだ。
死にたくない。
まだ死にたくない。
まだ伝えてないのに。
この気持ちの半分も、ヒロに伝えてないのに。
このままヒロと別れてしまうなんて 。
ヒロ、ここに来て。速く僕のそばに。
せめて一言でも良いから声が聞きたい。
ヒロのその笑顔をもう一度見たい。
神様。最後にもう一度だけ、僕に力を ・・・。
草の青臭い匂いがやけに鼻につく。
意識が朦朧としてきた。
「 ・・・死・・・、たく・・・ない・・・よ・・・、ヒ・・・ロ・・・ぉ・・・。」
自分を呼ぶ博之の声が遠く聞こえる。
大介の頬を涙がつたった。
次へ→