キーンコーンカーンコーン
放課後のざわめき。通り過ぎていく足音。女の子達の笑い声。暖かい午後の日差しが窓から入り込んでくる。
ほうきを手に、一人残された大介は自分のじゃんけんの弱さに愕然としていた。
とうとう一週間連続で負けてしまった。
自分がじゃんけんに弱い事は知っていたけど、これほどまでに弱いとは思っても見なかった。
「あーあ。もう。ついてないなぁ。」
溜め息と一緒に呟いて、大介は机の上に腰掛けた。
こんな広い音楽室をたった一人でなんて考えただけでぞっとする。普通の教室の倍はあろうかと思われる音楽室はただ広いだけではなく、色々な楽器が置きっぱなしになっている。授業の効率を考えてと言うけれど、これはあまりにもひどすぎる。ここまでくると、単なる吹奏楽部の物置だ。
開け放してある窓から心地良い風が入ってくる。大介はぼーっと外を眺めながら、今授業でやっているドイツ曲を口ずさんだ。
この曲は何と無く好きだ。メロディラインが凄く綺麗で、それにドイツ語の響きがとても良くマッチしている。自分が歌うには殺人的高音で辛いけれど、誰か歌の上手い人が歌ってくれたらいいのにと思う。
口ずさみながらぼーっとしていると、不意に目の端にグランドピアノが入った。その途端、釘付けになる。
机の上からとんと降りて、その鍵盤を軽く指で叩いた。
やっぱり響きが違うよなぁ。
そう思うと何だか急に指がうずうずしてきた。
大介はにっこりすると廊下の人を確認して三つあるドアをきっちりと閉めた。こうすれば一応防音になっているこの部屋から音は漏れないはずだ。
グランドピアノの蓋を開けてきちっと椅子に座り直すと、大介は指の動きたいままにさせた。
小さい頃、半強制的に習わされたピアノは子供心に理不尽に感じていた。あのやってもやっても終わらないバイエルや、音符の上にふってあった運指番号は好きじゃなかった。どうして弾きたい曲を弾かせてくれないんだろう、どうして好きなように弾かせてくれないんだろう、いつもそう思っていた。たとえ実力が伴わなくても自分の弾きたいと思った曲なら一生懸命になれるし、たとえ右手の親指で弾きなさいと書いてあったとしても、左手の親指で弾いた方が都合のいい事だってあると思う。
大介は今こうして自分の好きなように弾いていられるこんな時が一番好きだった。何にも束縛されず、こうしてピアノと向き合っていられる時だけ自分が解放された様な気がする。
ピアノを習っている時にはそれが無かった。先生の言う通り、自分の解釈などそこには入り込む余地など無かった。ここはこうした方がもっと面白いのに。そう思う事の方が多かった。
別にクラッシクを否定しているわけじゃない。クラッシクは好きだし、本当に凄いと思う。
だけどそれが総てだとも思えなかった。
その後エレクトーンに転向したけれど、やっぱりそれは自分の求めているものの一部でしかなかった。
気付くと指はさっきまで口ずさんでいたドイツ曲を弾いていた。日頃頭の中に思い描いていたアレンジをひとつひとつ形にしてエンディングまで進んで行く。
最後のフレーズまで大事に置いていく。
ラストの一音を弾き終えた時、思いがけない所から拍手があがった。びっくりして振り返るとそこには見覚えのある顔があった。
「貴水・・・。」
「すごい。すごいよ。今のって、今、授業でやってる曲だろ?すごい良いよ。誰がアレンジしたの?めちゃくちゃかっこいい。」
興奮している彼は顔を赤くして一息に言った。言いながらもずんずんとこっちへ向かってくる。
近くまで来ると手近な机にぽんと腰掛けて、グランドピアノに頬杖をついた。にこにこして期待に満ちた目は、まるで人懐っこい子犬のようだ。
「かっこいいかな。」
戸惑いがちに言う大介に博之は思いっきり頷いた。
「うん。もー、めちゃくちゃ。」
屈託のない笑顔に大介もふと笑みがこぼれる。
「ありがとう。実はこれ、僕のアレンジなんだ。」
「うそー。すげーじゃん。もう一回弾いてよ。オレこっちの方がすげ−好き。」
急かす博之に大介は苦笑してそっと指を鍵盤の上に落とした。戸惑いながらも弾き始めた曲に、奇麗な高音が乗っかってくる。
え・・・!?
驚いて視線を上げると、高音の主は目を閉じて気持ち良さそうに歌っている博之だった。
信じられない。
こんなにキーの高い曲を楽に歌っている。それもさっき一回しか聞いていない僕のアレンジで。それに ・・・。
なんて奇麗な声なんだろう。こんな奇麗な声、聞いた事がない。声楽のボーイソプラノとは違う。空に突き抜けるような痛さ。
気付くと大介は博之の声に惹かれていた。
これだけ高い音を出しておきながら、時折見せる低音部の苦しさ。この上まだ上のキーが出るって言うのか。
大介はもう夢中だった。ひたすら博之のキーに合わせてどんどんと転調していく。
博之が閉じていた目を開いて大介を見る。不思議そうなその顔はすぐに納得の顔に変わった。
博之の声が気持ち良く響く。大介は信じられないような思いで博之を見詰めた。
ついてくる。きちっと。
突然の転調も気にならないかのように。むしろその度にどんどんと歌い易くなっているかのようにそのハイトーンは響き続ける。
大介も彼の声に酔いしれる。
短い曲が永遠のような長さをもって終わる。大介の上げ続けたキーは4度も上がった所で終わっていた。
つかの間の夢のような信じられない温かで熱い余韻を引きずったまま互いを見詰めた。当の自分さえもこんな事が信じられないような出来事。何かに引き寄せられるように溢れ出るメロディ。力強い何者かが背中を押すように湧き上がる力。言葉が見つけられずにただ見詰める。ふとどちらからともなく交わされる微笑みに時が動き出す。
「すごいキー高いね。驚いちゃった。」
「え、そう!?あんまり気にした事ないんだ。」
驚く博之は再びピアノに頬杖をつく。
「だって途中で随分キーあげちゃったよ。大丈夫だった?」
「うん。すっごく気持ち良かった。音楽の授業もこーだと歌いがいがあんのになぁ。」
八重歯を見せて博之が笑う。
「でもびっくりしちゃった。調度、歌上手い人に歌って欲しいなぁって思ってたとこだったんだ。」
「えー。オレ上手くないよー。音楽の成績なんて2だよ。」
「えー、うそー。
でもさ、学校の成績なんてあてになんないよ。そー思わない?」
「思う思う。でもさ。それでもやっぱり2はまずいでしょう。卒業出来ないじゃん。」
照れながら頭をかく博之に大介もつられて笑う。
不思議な時間。どことなく温かく心和む空間。それはきっとこの貴水博之から発せられたものかも知れない。
不思議な奴だと思う。今までこんなに親しく話した事なんてないのに、いつの間にかなんかもうずっと前からの友達のような気さえしてくる。
高校に入って3年間、ずっと同じクラスだったのに、こうして話したのは数えるほどしかない。彼はいつもクラスの中心で、何かと人目を引く存在だった。女子からももてたし、男子からも何かと声を掛けられていた。自分とは一緒にいる友達が違ったし、むしろ、彼はクラスのどんなグループにも入っていなかった。どちらかというと一人で、かと言って誰とも話さない訳でもなく、誰にでもよく声を掛け、誰からもよく声を掛けられていた。本当に不思議な存在。そんな彼が今自分の目の前にいる。もうずっと前からの友達のように。それが当たり前だったと思い始めている。これが当たり前なんだと認識してる。
「ねぇ。」
ふいに呼ばれた声に自分の思考を閉じると彼を見た。
「浅倉ってさぁ、ピアノ上手いんだね。全然知らなかった。」
「学校では弾いてないからね。」
苦笑を浮かべて答えを返す。
「そーだよね。だってオレ、弾いてるの見た事ないもん。ずっと同じクラスだったのにさ。音楽の授業でも弾いてないじゃん。
どーして?そんなに上手いのに。それだけ弾ければ楽勝じゃん。」
大介はそんな博之の言葉に苦笑いを返した。
そう思って当たり前なのかも知れない。実際、音楽の授業において、譜面が読めることの比重はかなり重い。選択という事も手伝ってか、かなり専門的でもある。それなのにピアノを弾ける事を隠すなんて普通は考えられないかも知れない。だけど ・・・。
「もしかして男がピアノ弾けるなんてって思ってる?」
博之は大介の目を真っ直ぐに見詰めながら問うた。
「別に・・・そんな事ないけどさ・・・。
ピアノさ。僕に向いてないみたいなんだ。だから。」
「これだけ弾けるのに?こんなに楽しそうに弾いてるのに向いてないって、どういう事?」
「なんかさ。違うんだ。はっきり言えないけど。」
大介は胸の中のもやもやを隠すように明るく言った。
「ふーん。物足りないって事?もっと違う何かを探してるんだ。もっとさ、もっとドキドキワクワクするような事。」
博之は優しく笑った。期待に満ちた瞳で。
大介は見とれた。そんな博之がとても眩しくて、優しくて。
誰にも解ってもらえなかったこの胸のもやもやを、ほんのちょっとしか話してないこの人が、自分でも気付いていなかったもやもやの正体を目の前のこの人はニコニコと笑いながら言い当てたのだ。
不覚にも涙が出そうになる。きっとこれは感動しているといって間違いじゃない。胸の内が熱くなって言葉が上手く出てこない。
「た・・・貴水はどうして音楽選択にしたの?」
「え、オレ?だって音楽が一番マシかなって。
だって書道って道具持ってくんの面倒くさいじゃん。美術もやっぱ道具持ってくんのやだし、あと、決められたテーマでって、なんかやなんだよね。好きな時に好きなものを作るのが美術じゃないのかな。なんて、ちょっとかっこつけすぎ?」
にっこりと笑って恥ずかしそうにピアノに突っ伏した。
そう言えば、彼が机に落書きをしていた事を思い出す。鼻歌交じりに書かれた絵はとっても上手くって、どうして美術を選択しなかったんだろうと思った事があった。
「それにね。」
博之は突っ伏したまま目線を上げて言った。
「歌うの好きなんだ。オレ。ほっとくと一日中、歌ってる。よく兄貴にうるせーって殴られるんだ。」
大介はその光景を思い浮かべて、思わず吹き出した。博之もつられて笑う。
「浅倉ってさぁ、見た目よりもずっと話し易いね。オレ、もっと真面目な奴かと思ってた。」
「えー、何で?」
「だって、いつもつまんなそーにしてるじゃん。笑っててもさ、どこか冷めてる感じでさ。だからちょっとムカついてた。やなやつーとかって思ってたんだ。実は。」
博之はそう言って苦笑いした。
「それなら僕も同じ。
貴水ってさ、いつもみんなと騒いでるのに、時々つまんなそーに黙ってるじゃない?それってすごい気分屋なのかと思ってた。」
大介が視線を送ると博之もこっちを見ていた。お互いに顔を見合わせて笑う。
「なんだかさぁ、何で今まで話さなかったのかなぁって感じだね。三年間も同じクラスだったのに、話した事あんまりないよね。」
「そう言われてみればそうかも。もしかしておはようくらいしか話した事ないかも。」
「だって貴水いつも遅れて来て、授業終わるとすぐに帰っちゃうだろ。貴水の授業って、もしかしてフレックス?」
大介の意地悪に博之は苦笑いで返した。
「浅倉だって今時珍しいぜ。登校時間の15分前には必ず入ってるって。」
「これが高校生のあるべき姿なんだよ。」
にっこりと言い返されて博之は思わず吹き出した。
彼を基準に考えたら、一体何人がれっきとした高校生なんだろう。
キーンコーンカーンコーン・・・。
温かな空間に響くチャイムの音。
「あ、掃除の時間終わってるじゃん。」
大介が時計を見て言った。
「帰ろうぜ、浅倉。掃除時間終わっちゃたんだからさ。」
「でも。」
「いーじゃん。掃除なんかしなくてもきれいだし。」
博之がにっこり笑う。
「そーだね。まぁいっか。」
大介も笑い返す。
「さぁ、帰ろ。」
博之が机からぽんと飛び降りた。
「ねぇ貴水、どうして音楽室なんか来たの?何か用事、あったんじゃないの?」
「あ、そーだった。」
博之は窓側の後ろから2番目の席まで行くと、机の中から何かを取り出した。
「何?」
「これ、浅倉も読む?」
そう言って投げてよこしたのは、一冊の雑誌。ぺらぺらと中をめくって大介は赤面した。
「こんなもん授業中に呼んでたの?度胸あるね、貴水って。」
「だってばれなかったもん。読むなら貸してやるよ。」
からかい半分の博之の声。
「貸してくれるの?借りてもいい?」
博之は驚いて大介を見た。
「へぇー、浅倉でもそんなもの読むの?驚き。」
「僕だって健全な男だもんね。」
大介はにやりと笑い返して見せた。
「浅倉ってすっげーギャップ。真面目な奴かと思ってた。僕はそんなフシダラな事はしませんみたいな。」
「僕の!?どこが真面目なの!?」
「うん。今解った。すっげー食わせモノ。そのいつもの真面目さにオレ3年間、今の今まで騙されてた。すっげー猫かぶり。」
「猫なんかかぶってないよ。僕はいつも普通にしてたじゃない。」
「どこがっっ!!」
笑い声の雑じる会話。
「帰ろ。」
そう言って背中を叩く。この温かな空間を引き連れて二人は昇降口へと向かった。
「大学行っちゃったら、きっとヒロくん、私の事、忘れちゃうかも。」
そう言って目の前の彼女は笑って見せた。
ざわざわと騒がしいファーストフード店の中、彼女の声が鮮明に聞こえた。
「何で、いきなりどうしたの?」
「うん。だってさ、大学違うじゃない。ヒロくん、モテるもの。きっと私の事なんか忘れちゃう。彼女出来たんだなんて、一ヶ月もしないうちに言わないでよ。」
「言わないよ。」
「解んないなぁ。ヒロくん優しいじゃない。女の子から付き合って下さいなんて言われたら断れないんじゃない?私みたいに。」
「晶子は・・・。
オレだってちゃんと断るし。だって好きでもないのに付き合うほうが悪いだろ。」
「 。それ聞いて安心した。」
そう言って彼女 保科晶子 は笑った。
晶子と付き合い始めておう一年半がたつ。彼女を始めて知ったのは二年のクラス替えの時。出席番号順で振り分けられた席で隣になった事から。運悪く当たった教卓の前の席で眠りこけるオレを、休み時間になると起こしてくれたのが彼女だった。そんな事をしているうちに、何と無く気になっていた。そこへ晶子からの突然の告白。晶子は割とさっぱりとした性格で、最初は男っぽい奴だとしか思わなかった。だけど些細な気の使い方に晶子の女っぽさを見た。
「あーぁ、もう卒業か。」
溜め息混じりの晶子の声に、現実に引き戻される。
「もうヒロくんと同じ学校に通う事もなくなっちゃうんだなぁ、友達とかもみんなバラバラだし。さみしいなぁ。」
じっと見詰められて博之はドギマギした。彼女の真っ直ぐな視線には何か魔法があるのかも知れない。
「いつだって会えるよ。」
「 ほんとに?」
彼女はいつになく真面目な口調で言った。
「あぁ。」
博之は頷いた。何かそれ以外の事を言ってはいけないような気がして、何も言えずにいた。晶子も何も言わずに笑っていた。
高い灰色の空。
「あーぁ。やっぱりオレ進路変えるべきだったかなぁ。」
「いきなり何言い出すのさ。ヒロ。」
日誌を書きながら大介が笑う。
「んー。だって、そうすればあんな事、言われずにすんだのになって。」
博之は机に腰掛けて、大介の手元を見ながら言った。
「何かあったの?」
大介が手を止めて、博之を見上げた。
「うん。晶子がさぁ、別々の大学だろ。彼女出来るんじゃないかって、私の事忘れるんじゃないのって言ってさ。こんな事なら、同じ大学に行けば良かった。」
口を尖らせる博之に大介は笑って見せた。
「何だよ。」
「だってヒロらしくないなって。こんなヒロもいたんだなぁって思ってさ。」
大介はシャーペンを置くと、頬杖をついて博之を見詰めた。
「ヒロはさぁ、そんな事で進路決めちゃうの?自分の意志じゃなく、彼女との仲が悪くなるからとかさ。」
「別に、そーゆー訳じゃないけどさ・・・。」
「だよね。だってそうだとしたら、もっと前にそうしてる。そうじゃないから、自分の意志で決めたから今の進路なんでしょ。ヒロにはヒロの道、保科さんには保科さんの道があるんだもの。そんな安易に決めていいもんじゃないと思うよ。進路って。彼女との仲は、その後考えればいい事で、その事で進路決めるなんて、変だと思うな、僕は。」
大介はにっこり笑って見せた。
「今はさ、淋しいんだと思うよ。みんなバラバラになっちゃうし。中学や高校の時とは違うんだもの。将来かかってるんだよ。それはきっと保科さんも解ってると思うな。ただ、なんとなくさ。淋しいんじゃないかな、やっぱり。不安だしね。」
大介が照れた笑いを浮かべる。
「大ちゃん・・・。どうしてそんなに解ってくれちゃうのかなぁ。やっぱり不安なのかなぁ。まぁ、オレだって不安だけどさ。
あーぁ。大ちゃん、女の子だったら良かったのに。そしたらオレ、彼女にしちゃうよ。こんな理解ある彼女って、すっごい理想。」
「気持ち悪い事言わないでよねー。もー、ヒロはぁ。」
大介は再びシャーペンを手に、日誌を書き始める。
「でもさ、まだ実感湧かないんだよね。何だかまたずるずると上にあがるみたいな気がしてさ。学校なんて、どこに行っても同じみたいな気がする。大ちゃんは就職だから、もっと新しい世界って感じかもしれないけどさ。」
「そんな事ないよ。
でもさ、僕達の3年間ってなんだったんだろうって思っちゃった。今日のあの先生の言葉。まるで高校って次に進む為の布石みたい。」
「暮林の言った事なんて気にすんなよ。まぁ、オレも結構アッタマきたけどさ。あいつはそーゆー考え方しか出来ないんだよ。きっと。」
博之は大きく息を吐き出した。
「でもさ、ヒロは進学組だからそんなに言われなかったかも知れないけど、僕なんか就職組だっただろ、もーしつこいくらい進学する気は本当にないのかって言いやがってムカついた。」
「そりゃー大ちゃん頭良いじゃん。進学しろって言いたくなるよ。」
「でも進学が総てじゃないだろ。やりたい事もないのに上に行ってどーすんのさ。だったらちょっとでもやりたい事をやった方がいいと思わない?僕は好きだからこうするって決めたのに、他人にとやかく言われたくない。」
大介は日誌を睨みつけて言った。
「自分の人生だもん。好きなようにやればいーじゃん。自分が楽しめない人生なんてサイテーだよ。そー思わない?」
博之は手足をうーんと伸ばして大介に言った。
「ね。」
博之はにこっと笑った。大介もつられて微笑む。
「自分のやりたい事・・・か。
でもさ、本当に自分のやりたい事なんて解んないよね。本当にこれでいいのかとかさ、いつも考えてばっかり。本当はもっと違う道があるんじゃないかとかさ。本当は不安でたまらないんだ。」
大介は博之にぎこちない微笑みを見せた。
「でも大ちゃん、好きだからこの道に進んだんじゃないの?オレみたいに取り合えず上って言うのとは違うじゃない。」
「何言ってんの。ヒロだってちゃんとやりたい事、あるんだろ?言語学とか社会学とか。」
「うん。でも、オレのはただの趣味みたいな感じで、人の役にたったりとかもしないし、自分が楽しみたいだけかも、なんて。」
博之はバツが悪そうに苦笑した。
「いいんじゃない。社会に出るのなんて、ずっと後でいいと思うよ。そんな焦って、自分のしたい事もしないまま社会人になったってつまんないじゃない。そう思わない?」
大介は博之の顔を覗き込むと言った。
「大ちゃん・・・。」
博之は泣きそうな顔で大介を見詰めていた。
「どうしたの?ヒロ。」
「なんか、急にナーバス。卒業しちゃうんだなぁって。卒業しちゃったらみんなとも会えなくなって・・・。
大ちゃんと会えなくなるの、すごく淋しい。オレの事、こんな風に見ててくれた人なんていなかったからさ。結構オレって自分の好きなように生きてるってイメージ強くってさ、よく人に、悩みとかなさそーって言われちゃうんだよね。本当はいろいろ考えてばっかりなのに。あーもー。大ちゃんと離れんのやだよー。」
「ヒロ。」
「オレもヤマハに就職すれば良かった。」
「何、言ってんのさ。ヒロ。今、自分の意志で決めようって言ったじゃない。」
「大ちゃん、オレとずっと友達でいてくれる?卒業した後も、ずっと友達でいてくれる?」
涙声の博之が言った。
「何言ってんの。当たり前じゃない。
もー、ちょっとヒロ。」
不意に抱きしめられて声が震える。彼の涙が移りそうになる。
「オレ、大ちゃんに会えて良かった。あの時、音楽室に忘れ物してて良かった。」
「本当。あの時、僕もじゃんけんに負けてて良かった。そうじゃなかったら、3年間、口も聞かずに卒業してたかもね。そしたらきっとつまんない高校生活だったかも。何と無く過ぎて、それとなくいろんな事、こなして、本当、暮林の言ったように、次のステップへ進む為だけの布石だったのかもしれない。
ヒロ 。ありがと。」
大介が優しく言った。
「大ちゃん。」
胸の中を熱いものが突き上げる。
急に感じる制服の重み。3年前はまだちょっと大きくて、ぎこちなかったこの制服が、今は小さく思える。初めて制服を着た時の違和感と嬉しさをもう思い出せない。
今、自分達はこの制服を脱いで行く。そしてそれぞれ違った道へと歩き始める。どこへ続いているのかも解らないレールの上を自分達は走り始める。
「ヒロ。」
そっと名前を呼んで、震える背中を軽く叩いた。
「行こう。」
優しく、力強く言って、大介は博之を見詰めた。
急に去来してきた卒業という意味の大きさを噛みしめる。
突然出来た、この胸の空洞。
今までの総てが思い出のひとつになってしまいそうで、苦しい。
けれど、きっとこれは、越えられるハードル。
僕には僕自身の、ヒロにはヒロ自身の。それは誰にも代われない。
たとえ今この瞬間が思い出に変わっても、僕にとってのヒロは今も輝き続ける星。たくさんの微笑みをくれた、たくさんの優しさをくれた、僕の中の光。
君に会えて良かった。
こんな痛みを知って良かった。
金色に輝く大切な空間。それを胸にまた歩き出せる。
今、未来の扉を開ける。君とともに 。
END 19960404