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廊下を擦れ違う樫田さんと一言二言、何かを言葉を交わす彼の後ろ姿が視界に入った。

後数時間で初日の幕が開く、最後の、本当の最後の通し稽古。客席に座って見ていた彼がOKの声と共に席を立った事は視界の端で捕らえていたから、きっと楽屋に来るのだろうといくつかの共演者との挨拶を交わし、舞台袖から楽屋に向かう廊下に出たところで、その光景に出くわした。

 

彼は小さく背中を丸め、小走りでオレの楽屋とは反対へ走って行く。特に楽屋を持っているわけではない彼が、一体どこへ向かうのかとそのまま後ろ姿を辿ると、彼は楽屋の端にひっそりとあるトイレへと駆け込んだ。その表情に・・・。

 

静かに近付き中を伺う。

 

 

「大ちゃん・・・。」

 

 

そっと声をかけると洗面台のところで必死に嗚咽を堪えている。

 

 

「ヒロ・・・。」

 

 

慌てて目をゴシゴシと擦り、鼻を啜る。オレはそんな彼にすっと近寄るとその頭をぎゅっと抱え込んだ。

 

 

「ヒロ・・・っ。」

 

 

力弱い抵抗。肩のところに広がる涙の温もり。

オレは抱える腕に力を込める。

 

 

彼は        

 

 

このミュージカルの本読みの時からこうして一人で泣く。

舞台が完成に近付けば近付くほど、彼はその涙を隠せなくなっていた。今ではその涙は有名なほど。

彼は“舞台って良いですね”と照れたように笑って言うけれど、その涙の本当の意味は別のところにあることをオレは知っている。

 

 

重ねているんだね        あの時の自分に。そして今もまだ彼の中の不安を完全に拭い去る事が出来ていない事も・・・。

 

近くにいすぎて、本当に大切だと気付かなかったオレと、言えない想いを抱え込んだ彼と、まるでこの話はそんな切ない、若かった頃を思い起こさせる。時々、演じているのか自分の気持ちの吐露なのか、解らなくなるくらいに。

 

だから彼は涙を流す。彼の中の抱えきれない不安が、涙を流させる。

彼から次々と上がってくるその切ない旋律は、話になぞらえてはいるが彼の気持ちそのもので。

彼はそんな旋律に乗せて歌うオレを見て泣く。まるで自分に向けられた事のように。

 

オレはそっと彼の背を撫でる。ビクリと小さく震える彼。肩に感じている温もりが広がる。

 

 

「大丈夫だよ。大丈夫。」

 

 

そっと抱き寄せると小さく頷く。

照れたようにオレの腕から抜け出した彼の目は赤いまま。鼻を啜りながら笑う。

 

 

「ゴメン。」

 

 

謝る彼を再び抱きしめて自分の胸に仕舞い込む。

 

 

「オレはいなくならないよ。だから安心して。」

 

 

そっと震える髪にくちづける。

 

 

「何も気付かなかった、何も知ろうとしなかったあの頃とは違うから。その傷は、あなただけのものじゃないから。オレにもちゃんと背負わせて。」

 

 

誓いの言葉を持てないオレ達は、不安定な砂の上に立つ。

寄る辺のないこの想いはただ静かに、時を重ねていく事しか叶わない。

愛していると、何度口にしても、その端から風にさらわれて消えて行く。それなのに傷は、決して消えるわけではない。

だから・・・。

 

 

「ねぇ、大ちゃん。」

 

 

愛しい人にそっと告げる。

 

 

「オレの前でだけ泣いて。」

 

 

触れ合えるのは確かな温もり。今、この瞬間だけは消えない温もり。

彼の手がオレを掴む。彼の髪をそっと撫でる。

オレの胸を彼の温もりが熱く濡らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      END 20090913