<この繋いだ手を・・・>
愛してやまない日々も、想いが押し潰されそうな日々も・・・。
「はい、じゃあ今日のリハ終了です。お疲れ様でしたー。」
終わりを告げる舞台監督の声に、浮かれた熱から覚めるように現実に変える。
ツアー初日まで後1週間を切った。
昼下がり、ジリジリと照りつける太陽。何もしなくてもじっとりと汗が滲んで来るこの時間に、ここだけ別世界のようにひんやりと凍えた部屋に集まって数時間。寒いとさえ思ったリハーサルスタジオの中で博之は吹き出すように汗をかいている。
あぁ、あちぃ・・・。
こめかみを伝う汗を掌で拭って、まだ現実に帰りきらない視線をぼうっと、この部屋を別世界にした張本人を見るともなしに見ていた。
機材の為といいながら、実は本人の快適な空間作りに他ならない、その人は舞台監督に近寄るといくつか確認をした後、不意に視線を上げた。その視線が博之とかち合う。
遠くから指を指して笑い、周りのスタッフも彼につられる様に博之を見て笑った。
え?何?何?
顔に何かついているのかと博之が顔を撫でる様を見て、また笑う。
えぇ?なんだよぉ?
一人、訳の解らない博之に笑い出した張本人が近付きながらまた指差して笑った。
「また、汗かきすぎ。」
「えぇ!?」
顔をくるりと撫でる振りで彼が言うとスタッフが博之を見て今まで抑えていた笑いを解放した。
「リハからそんなで本番大丈夫?」
見ると博之以外のメンバーは涼しい顔。
メンバーの中では一番付き合いの長い清水がギターを下ろしながら、
「ここの室温、浅倉温度。汗なんか出ないって。」
苦笑いする。
するとそれを聞き咎めた彼はすぐさま反論した。
「ちょっと、何?その浅倉温度って。僕はさぁ、機材の事を考えて。」
「ハイハイ、無駄口叩いてないで撤収するわよ!」
だらだらと片付けもしないキーボーディストに、これまた古い付き合いの、今は女社長が割って入った。
本番1週間前、そんな空気は微塵も無い。
いや、無いとは言わない。けれど、多分他のアーティストでは考えられない位、のほほんとしてる。
博之はこれが普通なんだと長い事思っていたから、サポートメンバーの言葉に驚いた。
もっと、ピリピリしていたりするのだと言う。
良い意味での緊張感?湧き上がる何か。
体育会系の、よし!気合入れて行こう!!みたいな。
そういえば、そんな事した事がない。いつもと同じペース、いつもと同じ空気。
緊張と言うよりは期待の方が強い。自分が楽しむ為に。
そんな自分達の空間をサポートメンバーは怖いと言っていた。プロとしての責任を否応なく突き付けられるんだと。
そんなもんかーとその時はぼんやりと思っていたが、もしかすると博之が一番それを感じていたのかも知れない。
だからリハーサルなのについ本気になる。浅倉温度の中で一人汗だくになる。
はぁ、あちぃ・・・。
目の前で笑う彼を見ながら手で汗を拭っていると、はい、と別方向から差し出される博之のタオル。
「ありがと。」
「貴水さんも支度して下さい。帰りますよ。」
マネージャーの林が目の前で笑う彼、浅倉大介に軽く会釈をして言う。
「あ、うん。」
半ば無意識に返事を返し、受け取ったタオルで頭からバサバサと汗を拭う。
ぼーっとした頭でぼんやりと、確か前にも同じような事があったような気がすると、不確かな記憶を辿る。
自分を見て笑う大介を覚醒しきらない頭でボーっと見上げている自分。いつの事だったか、それともいつもの事だったか。
思えば何度目になるのだろう、この夢の中にいるような浮遊感。
ツアー前の、それもほんとに直前のどこかワクワクした、待ち遠しいような、それでいて永遠に続けば良いのにと思ってしまう不思議な時間。
彼がいて、自分がいる。
どちらか片方がかけたら成立しないこの空間。
前は自分じゃなくても変わらないんだろうと思った事も正直あった。まるで自分がお飾りのような、ただの歌うたいなんだと思った事も。
けれどある時、そんな気持ちでいた自分に、それならやる意味ねーじゃん、と、一言彼が漏らした。
それからかも知れない。この空間が意味を持つようになったのは。
彼は自分をただの歌うたいにしてはくれなかった。その事が博之には何故かとても尊い事に思えた。
笑う彼に見守られ、そんな事をぼんやりと思いながら顔を拭った。
「怒られてやんの。」
林が背を向けた途端、ニヤリと笑って彼が言う。
「いつまでたっても手のかかる男だなぁ。ほんとに。」
博之のタオルを奪って自らも顔をひと撫でする。
大ちゃんだって、汗かいてるじゃん。
さっぱりした顔を見せて、タオルを投げて返す。
「とっとと帰る支度しないと置いて帰るよ。それとも、まだリハしたりない?」
ニヤリと笑って博之を真似て腰を振ってみせる。
「なっ・・・!?」
「そうかそうか。それは場所を移してからな。別のスタジオでたっぷり振らせてやるよ。」
耳元で卑猥に囁かれ、博之が言葉に詰まる。いくら囁き声と言ってもこれだけの近距離、迂闊にも聞こえてしまったのだろう林の動きが止まり、うなだれる。
二の句の継げない博之とニヤニヤと笑う大介をイヤと言うほど見てきた最強の女社長は金色の頭を気持ちが良いほど小気味良く叩いて、スタジオの空気を動かした。
「何、変態エロオヤジ発言してんのよ!自称天使が聞いて呆れるわ。」
「イッタイなぁ〜も〜。天使だから気持ちイイ事のお誘いしてるのにぃ〜。」
「そーゆーのは堕天使っていうのよ。」
うんざりした顔の彼女に全く動じた様子もなく、オヤジ発言を連発する。
「だてんしってアベちゃん、上手いね〜〜。D、AでDA天使?あははは。も〜アベちゃんったらぁ〜。」
ケラケラと笑う彼を他所に、百戦錬磨の女社長はさっさと帰り支度を始め、笑い転げるDA天使を連れてスタジオを出る。
「貴水さん!」
呼ばれて、慌てて自分の荷物を引っつかんで振り返ると、こちらも既に用意の整った林が入り口から手招きしていた。
「しゃんとしてください。今日は車なんですから。」
軽く背中を叩かれて押し出された先で、耳聡い彼は先を行くマネージャーに声を掛けた。
「ねぇ〜アベちゃ〜ん。今日はヒロの車で帰るから〜。お疲れ様〜。」
そう叫んでおいて、さっさと博之の車の助手席側のドアに立つ。
「大ちゃん・・・?」
追いついて声を掛けると、ドアを開けろとジェスチャー。
「車なんでしょ?乗っけてって。それとも運転してやろうか?」
博之の愛車の運転席をチラリと覗き見ながら言う。
「イヤイヤイヤイヤ・・・。」
慌てて助手席のドアを開けて彼を座らせる。
呆れた顔の安部が近付いてきて大介の乗り込んだ助手席の窓をコンコンと叩く。慣れた手つきで窓を開けて安部に、
「ぼーっとしてんだもん。事故られたら困るでしょ?だからさ。」
端から聞いたらもっともな言い訳をする。
「ハイハイ、そういう事にしといてあげるわよ。明日も今日と同じ入り時間だからね。遅れないように。いいわね。」
スケジュール確認をして、じゃあ、と離れる安部に、
「アベちゃんもたまには奥様したら〜?僕がこれだけ気を使ってあげてるんだからさ〜。」
窓に寄りかかったままニヤニヤと言う。
「夫婦水入らず。ステキな夜を過ごしてね。」
「うっさい!!この、変態オヤジ!!」
遠くから蹴りを食らわす振りをして、そのまま彼女も車に乗った。
「大ちゃん・・・。」
笑い転げる傍らの彼に声を掛けると、涙を拭きながら必死で笑いを止めようと格闘している。
自称天使の彼がこんな顔を見せている。
一体、いつからこんな風になったんだろう。気付いたらこれが当たり前になっていた。歳相応のオヤジ臭い彼。
そう言えば、意味ねーじゃんと言ったあの時からか、彼は総てを見せてくれるようになった。口汚いことも平気で口にするようになったし、こうして他人をからかって楽しむようにもなった。標的は大抵決まっていたけれど・・・。
好きだな、と思う。
生身の彼に触れさせてくれる、その事が特別に思えた。
楽しいことばかりではなかった、ここに来るまでは。
いろんな障害もあったし、決別もあった。
けれどこうして今また、この時間を過ごしていられるその事に、博之はこんな瞬間とても感謝する。
答えは別のところにあるのかも知れない。
2人でいる事に、意味はないのかも知れない。
けれど触れ合ったこの魂に、惹かれあったこの運命に、今もこの先も、きっと永遠に、感謝するに違いないと博之は思った。
愛してやまない日々も、想いが押し潰されそうな日々も、
総ては2人、共に・・・。
END 20090720