<君たちは僕の天使>





「大ちゃん?」


いつもの感覚で薄く扉を開けて身構えてから、もうその衝撃は走って来ないのだと貴水は現実の空虚さを痛感した。
返事のない部屋の中を彼がいるであろうリビングへと向かう。
気温のせいだけではない冷たさが部屋の中を満たしている。
使われる予定の無くなった、かけられたままのリード、水が入ったままの食器。部屋の片隅には広げられたままのトイレシート。齧られていびつになったスリッパを愛しく感じてしまう。
浅倉は泣き疲れたのかソファの上で崩れるように眠っている。貴水は浅倉の前髪をそっと指先でかきあげると、その僅かな振動に浅倉が跳ね起きた。


「ベルカ?」



貴水の姿を認めると小さくため息をついた。


「・・・ヒロ。」


座りなおした浅倉の隣に貴水がそっと腰かけると、変な格好で寝てしまったためか浅倉はコキコキと何度か首を鳴らした。


「写真、選んでたの?」


落ちていたスマホを拾い上げた時に見えてしまった画像を浅倉に渡しながら訊ねると小さく頷いた。


「どれも可愛いからね。選べなくて。」


そう言いながら再びスクロールし始める浅倉は哀しそうな笑顔を浮かべた。


「ベルカも、淋しくないよね。みんないるから。」


自分に言い聞かせるように言う浅倉に頷いて見せると再び目元を赤くして頷き返す。
浅倉が犬を飼い始めてどのくらい経ったのか。再始動した時に大型犬にビックリした記憶があると言うことは、かれこれ20年以上、彼の生活には常に愛する家族がいた。
この場所にはいつも人懐っこい愛犬の姿があり、足元を掠める気配に気付けば慣れていた。
ベルカは貴水にとっても犬にだいぶ慣れた後に子犬から見てきた存在だった。
おっかなびっくりだったジョンの時とは違い、最初から可愛いと素直に思えた犬だった。女の子らしいと思える仕草が解るくらいには貴水にとっても馴染んだ存在だったのだ。

浅倉の愛情のかけ方は愛犬家としては当たり前の事だったのかもしれないが、大型犬と暮らした経験などない貴水にとっては驚きの連続で、『家の子』というその言葉通り溢れるばかりの愛情を惜しむことなく与えていた。ベルカの方でもそんな浅倉の可愛がり方にいささか辟易していたきらいはあるものの、それでも同じように浅倉を愛し、2人の生活は常に温かいものに満ちていた。

浅倉の愛犬が亡くなるのは初めてではない。
『虹の橋を渡りました』と短い文面だけで送られてきたLINEにその時が来てしまったのだと貴水はしばし言葉を失った。この瞬間だけは慣れることは出来ない。
彼らの寿命を考えたら自分達より早く亡くなることは解っている。まして『もう長くはないと思う』と浅倉の口から聞いていたのだ。
それでも最後に会った彼女は常と変わらず明るい笑顔で自分を迎えてくれた。待ってましたと言わんばかりに体当たりしてきたあの感触を覚えている。

当たり前のように置かれていた様々な物を使う存在が居ない。お気に入りだったおもちゃもポツンと淋しそうに置かれたままだ。
浅倉の視線がそのおもちゃに注がれていることに気付いた貴水は立ち上がってそれを拾った。それを見ていた浅倉の目に涙が溢れてくる。
慌てて自らの後ろにおもちゃを隠した貴水は慌てて浅倉の元へと戻ると自分の胸に抱きこむように浅倉の頭を引き寄せた。
鼻をすする小さな音が貴水の耳に届く。宥めるように頭を撫でると浅倉の肩が小刻みに揺れた。
今まではこんな時でも必ず傍らには同じように悲しみを抱えた愛犬が居て、残されたその存在に浅倉は救われていたのだろう。
だが、今はそんな存在もいない。貴水が知る限り初めての事だ。

彼にとってその存在がいかに大きかったのか、こんな時に痛感する。
自分では埋められない時間を彼らはその愛情で浅倉を満たしていたのだ。
先程目にした浅倉の腫れぼったい目は、こうして何度も涙を流していることを物語っている。
しばらく表に出る仕事がないとはいえ、配信などは行っているようで、貴水の耳にもチラホラとそう言った声は届く。画面越しでも誤魔化しきれない彼の目元は、今もまた涙に濡れている。

落ち着きを取り戻した浅倉の背中をポンポンと撫でると、貴水は再び立ち上がり、使う主の居なくなった品々を集めて回った。
差し入れにと持ってきたデリカをテーブルの上に取り出すと、空になった紙袋にそれらをしまい、水が入ったままになっていた器をきれいに洗うとかけてあったリードと共に同じように紙袋に入れた。


「しばらく預かるよ。また必要になる時まで。」


そう言って貴水は柔らかく微笑んだ。考えるように貴水を見つめていた浅倉は、しばらくすると小さくコクリと頷いた。


「せっかくだし、食べようか。大ちゃん、お腹空いてるでしょ?」


紙袋を使うために取り出したデリカを示すと、浅倉は弱々しく立ち上がり貴水の隣へと歩いて来た。テーブルの上に並べられた品数の多さに小さく笑う。


「まただいぶ買い込んできたね。こんなにいっぱい、食べきれないでしょ。」


「いいの。美味しそうだったから。ほら、大ちゃんも好きな物食べなよ。」


次々に蓋を開けながら浅倉の前に並べていく貴水は、せわしなく取り皿や飲み物を用意してあっという間に豪勢な食卓を完成させた。
お腹など空いていないと思っていた浅倉だが、貴水があれもこれもと取り分けて来るのに申し訳なさを感じて口をつけると、今まで忘れていた空腹感が急に訪れた。
自らも進んで箸を伸ばす浅倉に貴水はホッと胸を撫でおろす。

ようやく浅倉の空腹が満ちたであろう頃合いでコーヒーを入れてきた貴水が空になった器を片付けながら問うた。


「大ちゃんは次のワンちゃんはもう飼わないの?」


問われた浅倉は貴水の煎れてくれたコーヒーを両手で包みながら、じっと暗い表面を見つめた。


「・・・うん。安部ちゃんもそう言うんだけどね。僕ももうこの歳だし、迷うよね。」


ポツリと浅倉が言った。


「だってさ、仮に10年だとしても、僕、そうしたら65じゃない。お散歩とか満足に行かせてあげられなくなったらって思うとさ。大型犬は、可哀そうだもん。」


「何、弱気なこと言ってるの?オレ達、100歳までaccessやるでしょ?」


貴水の言葉に浅倉が小さく笑う。


「本気で言ってんの?」


「本気だよ。大ちゃんは違うの?」


「ヒロは本気でやりそうだからなぁ。」


弱々しく笑う浅倉に貴水は真っ直ぐな視線を向けた。


「2人で一緒にやるんだよ。ワンちゃんの事も、オレだっているじゃん。迷って諦めるなんて、大ちゃんらしくないでしょ。」


マグカップを弄んでいた浅倉の手をグッと掴み、貴水は告げる。


「お散歩くらい、オレだって行ってあげるよ。不安なことなんて、何もないでしょ?65歳だろうが70歳だろうが年齢を理由に諦めるなんてくだらないよ。ワンちゃんのためにも大ちゃんが元気でいなきゃ。」


真っ直ぐに見つめてくる貴水の視線に、浅倉の瞳に再び涙が溢れて来る。


「ヒロのポジティブなとこ、こういう時にはありがたいね。」


崩れた笑みを見せながら浅倉は鼻をすする。自慢げに微笑んだ貴水は、その美しく長い指で浅倉の頬を伝う滴を優しく拭った。


「それに、ワンちゃんいないと大ちゃん出歩かないでしょ。健康のためにもたくさん歩かなきゃ。それともオレと毎朝ランニングする?」


浅倉が絶対に「うん」と言わないことを知っている貴水は悪戯っぽくそう訊ねた。案の定、浅倉は渋い顔をして見せる。


「そんな嫌がることないじゃん。慣れれば大したことないよ。それに適度に身体を動かすのはさ、パフォーマンスあげるのにも良いし、大ちゃんなんてずっと座りっぱなしの作業じゃない?やっぱり身体がね、偏るんだよね。全身を満遍なく使ってあげることが、ま、健康の秘訣って言うか、」


「解ったよ!もういい、もういい。ヒロがストイックなことは知ってるから。」


矢継ぎ早に喋り出す貴水に苦笑しながら浅倉がさえぎると、貴水は喋り足りなかったのか口を尖らせた。


「僕はヒロみたいに意味なく走ったりとか無理だもん。ワンコのお散歩が精一杯。」


「うん。だからワンちゃん、飼おう。」


優しい笑みでそう告げられて浅倉は一瞬言葉を失った。


「ひとつの命だからね、簡単じゃないのは解ってるよ。でも大ちゃんは本当に本当に大事に愛情を注げる人だっていうのは知ってる。こういうのも縁だからね、ハイそうですかっていう訳にはいかないかも知れないけど、考えてみてよ。オレも協力するから。」


貴水はマグカップを握ったままだった浅倉の手の甲をトントンと叩いてみせた。


「・・・ワンコ、苦手だったくせに。」


「だね。もう慣れちゃったよ。」


「今だって飛びつかれたら腰引けてるくせに。」


「そりゃああの体格で来られたら誰だってそうでしょ。」


「お散歩、大変なんだぞ。」


「トレーニングと変わらないよ。」


「・・・ありがと、ヒロ。」


「どういたしまして。」


赤い目で上目遣いに見つめてくる浅倉の手を握り返し、貴水はニコリと笑い返した。


翌日、貴水から花が届いた。驚いてLINEのメッセージを送ると、『新しいワンちゃんが来るまで、大ちゃんが淋しくないように毎日お花を贈るね』といつもの陽気な顔文字付きで返信が来た。
数日後、浅倉は知り合いのブリーダーにいい子がいたら教えて欲しいと連絡をした。
 
 





END 20230223