<最愛>






「なんか緊張する。」


そう呟いて笑ってみせたかつての距離に、鼓動が心地良く速くなる。何でこんなにも長い間、この肌に触れずにいられたんだろう。

突然のパンデミックに否応なく離された距離。当たり前のことが当たり前ではなくなるそんな暮らしに、随分と慣らされてしまった。
どちらからともなく、多分ほんのちょっとの小さなきっかけ。指先が触れたその熱。プライベートの空間。暮れた静寂の時間のせいかも知れなかった。理由なんて、灯った衝動の前ではあまりにも無粋。


「大ちゃん。」


掴まれた、本当に久方ぶりに掴まれた腕の強さに甘いため息が漏れる。なんでこの腕を忘れたままでいられたんだろう。
振り返り、掴んだ腕をじっと見つめる伏し目がちな視線。ゆらりと向けられる素のままの瞳。いつもと変わるところなんてどこにもないのに、なぜか匂い立つ色香。

眩暈がしそう。

気付いてしまったらもう止める術なんて見当たらない。引き寄せて、確かめて、この餓えた思いを満たして・・・。けれど伸ばす指先は怯えるように躊躇い、そのほんの僅かの距離を踏み越えられない。

触れてもいい・・・?

あまりにも長い自粛生活に躊躇の壁が瞳だけをアツく潤ませる。
感じているもどかしさは多分二人とも同じ。だから互いに訊ねるようにじっと見つめて、言葉には出せない問いかけだけが静寂の中で繰り返される。鼓動は答えを欲しがって、身じろぎすら出来ず、息をするのが精いっぱい。
まるで覚えたての恋煩い。この歳になって、慣れ親しんだ相手にこんな思いを抱くなんて思わなかった。それこそ、赤面するような事さえしあった相手なのに。
掴んだ腕がアツい。腕だけじゃなく、全てがアツい。この熱を覚えている。


「大ちゃん。」


掠れた声がセクシーだと思う。この特別な音色を知っている。
触れたのは、優しく美しいその指。彼にしては随分とぎこちない、けれど幾度も繰り返されてきた仕草。こめかみを、片耳をなぞる仕草。恥ずかしいほど視界がクリアになる。
かさついた、洗いざらしの髪。さっきまでキャップを被っていたせいで軽くクセがついている。懐かしい、馴染んだこの感触。伏せられた瞳が見たくて、よくこうして髪を梳いた。
トクン、と、甘い音色が胸を満たす。

あぁ、彼が好きだ。こんなにも好きだ。

頬を、首筋を、確かめるように撫でる。一度触れてしまった指は、もう離れることを忘れてしまった。見上げてくる瞳はアツく潤んで、小さく開かれた唇は問うような形。想いは、多分おなじ。
解っている。様々な葛藤。それすらを凌駕する飢えた想い。気付かなければやり過ごしてこられた。理性の欠片が砕ける小さな音。もう、抗う術が見当たらない。
吸い寄せられるように互いの熱が重なる。

    あぁ、彼だ。

忘れていたこの腕。この胸、この背中、この鼓動。抱き合うだけで満たされて行く。力を込めたら壊れてしまいそうで、夢のように消えてしまいそうで、怖くて、確かめるように外側をなぞるだけで。
慣れ親しんだ体温、匂い。なぜ、この場所を忘れていることが出来たのだろう。愛しくて愛しくて、叫びたいほど愛しくて。
愛している、そう告げたくて瞳を合わせようと見つめた先には、同じ言葉を携えた瞳がこちらを見つめていて。
思わず口角があがる。この空気、いつもここにあったもの。額を合わせてクスクスと笑いあう。あんなに触れることを躊躇っていた先程までの自分は、あっと言う間に取り戻したこの距離に馴染んでしまい、空白の長い時間さえも既に忘却の彼方。


「ぎゅっとしていい?」


そう訊ねた彼は答えを聞くよりも早く確かな腕の強さを伝えて来て。この苦しさも彼のもの。すべてが愛おしい。
安堵のため息をつく彼の重みを肩に感じて、同じように彼の肩に額を預ける。
たったこれだけの事がこんなにも難しくなる世界が来ることなど思ってもみなかった。本当に長い間、彼に触れたかった。言葉では足りない想いを、こうして伝えたかった。
鼓動がひとつに重なって行く。この場所は、こんなにも愛しさに満ちている。
サラリと頬を髪が撫でる気配に顔をあげると、伏し目がちなもの言いたげな瞳。彼独特の小さく開かれた唇。視線の熱を唇に感じて鼓動が速くなる。
口に出すことは躊躇われて、そっと人差し指で撫でてみる。形の良い、ぷっくりとした下唇。それだけですべてを解ってくれる彼が好きだ。


「大丈夫、だよね?ずっと自粛してたし。」


「この状況で、そういうこと言うの?」


「でもさ。」


「ムードないなぁ。」


こそこそと最後の抵抗を試みて、けれどそれがすべて無駄な事だということは他でもない二人が一番解っている。


「なんか緊張する。」


そう呟いて笑ってみせた彼の唇が僅かに震えている。まるで初めての時のように躊躇いがちに触れる唇。ほんの一瞬、たったそれだけなのに身体中を甘い痺れが貫いていく。離れた唇を追いかけるように漏れた呼吸はどちらのものだったのか。
まるでデジャヴ。許されないと解っていて互いを求めずにはいられなかったあの時のよう。ただ今は、その先の熱も知っている。あの時と同じように再び触れるだけのくちづけを繰り返したまらなくなったその想いが、二人の間の隙間を無くそうと抱きしめるように互いの首に腕を絡ませた。


「キス、したい。」


ポツリと漏れた熱を持ったその言葉は、待ちきれない思いの中に飲み込まれるようにして消えた。

あぁ    

夢中。君に夢中。
噛みつくような激しさ。一度灯った熱は互いを喰らいつくさないとおさまらない。何故忘れていられたのか、何故求めずにいられたのか。乱れる呼吸も構わずに、バカになったみたいに、それしか考えられなくなってしまったように。
愛しくて愛しくて    
指で、腕で、唇ですべての形を留めておきたくて、離れていた間の喪失を埋めるように。漏れる声も、漏れる息も、とめどなく溢れる想いも、すべてすべて。
愛してる愛している    
たとえ誰に批難されても、許されぬ想いでも、君がいればそれだけで。


「まるで麻薬だ。」


笑いながらそう呟いた言葉に小さく頷いて、二人の隙間を埋めるようにまたキスを交わした。
 




END 20211126