<暁の宵は明けじ>







人生にはすべてを手離したい瞬間がある。
別に嫌になったとか要らなくなったとかそう言う事じゃなく、ゼロに戻りたいというか、自分をそこから解き放ちたい、その事に固執したくない、枠を外したいというのに似ている。
人生はそういうものの繰り返しだとは思う。
趣味などはそんな事はしょっちゅうで、あぁもう興味がなくなったんだなと。だからマイブームなんて言葉があるのだし。
ただそれが人様の目に触れる大きなものになると途端に思うようにはいかない。いらぬ邪推を呼んで逆にその事に雁字搦めになる。だから余計に手離したい。


よく他人からは思い切りが良いと言われる。そんなふうに思ったことはないが、ダメなものをいつまでも捏ね繰り回している事に意義を見出せないだけだ。
そこに掛けた時間がどれだけ膨大なものでも自分には関係ない。
しがみついて、それ以上の時間を無駄にするのは馬鹿げた事だと思うから。
リセットする時は余計な感情を押し挟まない、それが新たな扉を開く事を経験値として知っているだけだ。



自分から離れたいと告げたのに今朝方あまりにも幸せな夢を見て、また夢の中へ戻ろうと微睡へ引き返すように固く目を閉じた。
頭の中には優しい声で切ないラブソングが鳴っていて、その事に少し笑った。
呼び戻したい夢はきっと目を開けてしまえば日常の中に次第に薄れていく。優しい声はいつの間にか遠くなっていく。
布団の中のぬくもりは、あの腕の中よりは冷えていて身体にかかる重みさえも軽い。
鳴りやまないラブソングは胸を締め付けて、微睡は決して戻らない事を告げる。
目を開けなくても遠くなっていく。手離した面影はこんなにも鮮やかなのに遠い。



 
音のない世界、ぬくもりのない場所、自分だけの秘密基地。
風の音を聞きながら一日が緩やかに過ぎていく。火の爆ぜる音は精神を落ち着ける。ぼんやりと炎の揺らぎを見ながら何時間も過ごす。
時々、訳もなく泣きたくなって大きなため息をついてそれを誤魔化す。そしてふと笑う。ここにはそれを咎める人は誰もいないのだと。


仮面を被る事に疲れてしまった。
浅倉大介でいる事に疲れてしまった。
いろんなものが付随して大切なものが見えない。
だからすべてを手離そうと決めた。音も、想いも、しがらみも全部。
また一から始めればいい。大切だと思えるものを見つければいい。
きっともう戻らないものもあるだろう。けれど自分が模造品の何かになるよりはずっといい。


思い出は、時に自分を縛り付ける。優しく、幸せなものなら尚の事。手離したくないと念じるほど、失った時の恐怖に怯えて身動きが取れなくなる。
そしてそれはすべての足枷になって停滞を引き起こす。依存と言う名の執着が始まる。醜い欲望の怪物を生み出していく。
だから手離す。
怪物を生み出してはならないから、そんな姿を晒す事には耐えられないから。



自分は狡い人間だ。逃げる事でどうにか息をつくことが出来る。弱く、愚かだ。



風の音が激しく窓を打つ。
嵐が来るのかも知れない。この中は静かで穏やかな時間が流れているからその様子を窺い知る事はないけれど。
ここならば、このまますべてを終わらせることが出来るのかも知れない。人知れずひっそりと。
それはなんて魅力的な誘惑なんだろう。
もう何も考えず、指先ひとつすら動かさず、吹く風に、揺れる草木に身を任せて   。臆病者の自分には叶えることの出来ない望みだけれど。


風の音は激しく扉を叩く。耳鳴りのようなうねりの音。そんなものまで音階で認識してしまう自分の耳が恨めしい。
不協和音、次第に大きくなるリズム。規則正しい   


「・・・どうして。」


訝しんで細く開けたドアの向こうにここには居るはずのない人物が立っていた。厳しい目をしたその人物は遠慮もなくこの空間に入ってくる。


「どういう事。あのLINE。」


バタンと閉じられたドアは外の喧騒を締め出したが、嵐は目の前でこちらを見つめていた。


「なんで、ヒロがここ知ってるの・・・?」


「アベちゃんに聞いた。そんな事よりどういう事。ちゃんと説明して。」


真っ直ぐに見つめてくる瞳。この瞳を曇らせたくなくて離れたのに。
もう遠くなってしまったぬくもり、遠ざけたぬくもり。穏やかな日常にさざ波を立てる。すべてを壊す嵐の予感。


「新しい事を・・・やり方を変えようと思って。そんな事にヒロを巻き込むわけにいかないだけだよ。」


「巻き込む?」


「そう。上手く行くかどうかも解らない。これは僕の問題だから、ヒロには関係がない。」


僕は笑えているだろうか。今までと同じパートナーの顔で。違和感を抱かせないように。あのあたたかく優しい時間が過去のものになっても、この優しい男を傷つけずに済むように。
忙しさはきっとうまく距離を広げてくれる。
幸せ過ぎたのだ、きっと。今までの現実の方がありえない幻だったのだ。この手にも、身体の隅々にまでも残るリアルな幻。


「ふーん。解った。あくまでも関係ないって言うんだね。大ちゃんは。」


「そうだよ。どうなるか解らないもの。信じてついて来てとは言えないよ。」


多分、この男は優しい男だからついて来てと言ったら解ったと黙って何年でもそこにいてくれるのだろう。過去に何度もそうだったように。
けれどもうそんな事は出来ない。確かに自分達の結びつきは強く唯一無二のものになったけれど、1人で立つ事の恐ろしさも知った。
ここにいれば安全だと思ってしまったらその先は何もない。それはこの男にとっても不幸な事だから。


「くだらない。」


吐き捨てるような言葉。冷ややかな視線。これでいい。


「勝手にオレの気持ちを決めてくれるね。きっとまた小難しいこと考えてそれがオレの為とか思ってるんでしょ。
邪魔なら邪魔ってはっきり言ってよ。嫌いになったなら嫌いになったって。オレの目を見て言って。」


「ヒロ・・・。」


「ほら、早く。」


曇りなく突き刺すような視線。何も返す言葉が出ない。
嫌いなんて、言えるはずがなかった。微睡を逃したくないほどに本当は。


「オレの事、好きでしょ。」


心の中を言い当てられたようなタイミングで男が言った。


「好きだから巻き込んじゃいけないとか、離れた方がいいとか、オレには全く解らないけど、あなたがそういう思考をするって事は知ってるよ。
だから腹が立つ。巻き込まれるも離れるも決定権はオレにあってあなたじゃない。オレは自分が嫌だと思うまであなたの傍から離れるつもりはないし、かと言ってあなたの自由を奪おうとも思ってない。あなたは自分の好きなようにすればいいし、オレだって好きなようにさせてもらう。
ぐちゃぐちゃ理由をつけて離れようとするのはあなたが怖いだけでしょ。オレの事が好きすぎてどうしていいか解らないからでしょ。」


「・・・ずいぶんな、自信だね。」


「違うの?オレは間違ってないと思うけどね。」


悪びれた風もなく言い放つその男は嵐を引き起こす。やはり何も捨てさせてはくれない。


「それに傲慢なのは大ちゃんの方だ。誰がいつ、ついて行くなんて言った?そんな事があなたの足枷になるなら、オレがあなたを引きずって行く。逃さないから覚悟して。」


迷いないその言葉はいつだって正直で強い。その強さにずっと憧れている。
この男を捨てることなど出来るはずがない。そんな事は解っている。けれどその思いと同じくらい不安な事もあるのだ。
それをずっと隠してきた。隠せていると思っていた。けれどこの男は多分もうずっとその事を知っていた。だから優しかった。
気付かない振りを、してくれていた。


「迷惑な男だね。」


「あなたは面倒な人だよ。」


「お互いさまか。」


一番捨てたくて一番捨てられない男は黙って両手を広げてみせる。逃さないと言ったその言葉通り、抗えない確かさがそこにはあった。

この腕は、いつか自分を求めないようになる時が来るのかも知れない。そんな事をぼんやりと思う。
どんなに熱望してもこうして両手を広げてくれなくなる時が。
その時、自分はどうするのだろう。どうなるのだろう。
離したくても離せない腕は、今は黙って自分を待っている。
一歩踏み出し緩やかに額を傾けると微睡の中で望んだぬくもりが自分を包んだ。


「秘密の場所だったのになぁ。こんなところまで押しかけて来るなんて。」


「悔しかったらまた作れば。」


「簡単に言ってくれちゃって。」


脇腹を軽く小突くとやっといつもの笑い声。イタズラを咎めるようにグッと抱きしめられる。


「怒ってるんだからね。解ってる?」


「ごめん。」


「大ちゃん、口先だけだからなぁ。どうせまたすぐ、くだらないこと考えだすんだから。ホント、面倒な人。」


そう言う男の手からは愛おしさが伝わってくる。その事に泣きたいようなあたたかさが込み上げて来て、答える代わりに男の背に手を回した。
いつか終わりが来てしまうかもしれない未来でも、今だけは信じて身を委ねてみようと思った。
 
 



END 20210418