<しるし>










了解。

心の中でそう呟いて浅倉はスマホを置いた。
気付けば時計は自分が思っていたよりも随分と回っていて、随分と長く作業に没頭していた事に気付かされる。
今さっき置いたばかりのスマホを再び手に取り、今見たばかりのメッセージを開いて返信を返そうと思って止めた。そして思い出す。もう随分前のこと。
思い出してクスリと笑って文章の代わりにスタンプをひとつ、『了解』と返した。








あれはもう随分と前の話。
2人が動き出して間もない頃。いや、セカンドの制作に入った頃くらいだったか。
秒刻みのスケジュールにちょっとした意見交換が頻発するようになった頃。
当時はこんな便利なツールはなかったし、始めたばかりの時はマネージャー経由で行われる業務連絡のタイムラグさえ惜しくなった頃だ。
互いのメールアドレスを交換して、やり取りがダイレクトに行えるようになった事はありがたかったが、メールを貰いっぱなしにしておく事が何となく不遜な気がして浅倉にはどうも出来なかった。
もちろん会話の終わりは解っている。けれどこちらからその会話を断ち切る事が出来なかったのだ。今で言うなら既読スルーというやつだ。
しかし作業に没頭してしまうとその返信もままならず、そのタイミングを逃してしまい、ますます後ろめたさが残る。
貴水とのやり取りも同様に感じていた。
ところが貴水の方はというとそう言った事に頓着しない主義なのか返信のタイミングはまちまちだったし、メールを読んではいるのだろうがそれ以上の返信がない事も多かった。
そのこと自体は大した問題ではない。
送った内容を確認さえしてくれていれば何の問題もないのだし、むしろ彼の方から返信がなければその会話は終了になったのだとこちらも気を使わなくて済む。
ようは自分が貰いっぱなしになっている事に後ろめたさを感じるだけなのだ。
今にして思えばもともとの性分とは言え、気を使いすぎていたのだろう。

ある時、ふと貴水はその事に気付いたのか、メールの最後に『返信はいらないよ』と書いて送ってきた。
どこかホッとしながら、それでもなにげなく『解った。ありがとね。』と返信した。すると数秒後にいきなり携帯が鳴りだした。着信の主は貴水だった。


「返信はいらないって言ったでしょ?」


開口一番に告げられた言葉は貴水の呆れた様な声だった。


「大ちゃん、忙しいんだからさ、いいよ。わざわざ返してくれなくて。何か言いたい事があれば連絡してくれるって思ってるし、おかしなこと言ってたら見過ごす大ちゃんじゃないでしょ?」


「・・・そうだけど。」


「オレなんか言いたい事しか言ってないし、ろくに返信返さない事だってあるのに。
それとももしかしてそれってダメだった?ちゃんと解ったって返さなきゃダメだった?」


「そうじゃないよ。別にそんなの気にしてないよ。ただ、なんとなく・・・申し訳ない気がするだけで・・・。」


そう言って口を噤んだ浅倉を電話口の向こうから貴水が続きを促した。
そこで初めて浅倉は貴水に限った事ではなく、何となく貰いっぱなしが座りが悪い事を明かした。特に親密になればなるほど無視出来ないのだと。


「へぇ・・・そういうもんなんだ。大ちゃんはやっぱり優しいんだね。」


ケロリとした声を出す貴水に優しい訳じゃないと心の中で思う。貴水には理解出来ない心情のようだった。


「だから、気にしないでいいよ。」


「いや、気にするよ。むしろ気にするでしょ。」


電話口の向こうで勢い込んで言う貴水に面食らいながら、どうして?と聞き返すと貴水はしばらく唸った後、解った、と声をあげた。


「オレが、大ちゃんに意見が欲しい時は、意見ちょうだいってメールに書く。それにはちゃんと返信して。そうじゃない時は返信いらないから。大ちゃんが意見があれば別だけど。
オレは、大ちゃんがちゃんと考えてくれてるって思ってるし、オレに返信打つ時間があったらその分大ちゃんの好きな事のために時間を使って欲しい。どうかな?」


名案を思い付いたかのように明るいその声に、貴水の方が優しいじゃないかと心の中で呟いた。
こんなくだらない事にまで真剣に向き合ってくれるその姿勢が嬉しかった。そして改めてこの男をパートナーとして選んだことの幸福を思った。
あれから・・・。







再び手の中のスマホの画面に視線を落とす。
今ではもう決まりごとの文面はほとんど見当たらない。
浅倉も返信をしない事に慣れた。
慣れたというより解ったのだ。言葉にしていない相手の意思を。

相変わらず貴水からの返信はまちまちで、勢い込んで送って来たかと思うとパタリと途絶える。
もしかしたら何かに煮詰まっているのかも知れないし、まったく別の事をしていて眼中にないのかも知れない。
それでも心地よく繋がっていられると感じるのは相手が貴水だからだ。
自分も随分あの男に感化されたなと長い年月を振り返ってみて思う。
それは決して悪い事ばかりじゃないとストイックな男の面影を思い出して小さく笑った。




先程送ったスタンプには既読が付いている。
 





 


END20200531