<この長い道のりに・・・>
「ふぅ・・・。」
ツイートし終わったスマホをテーブルの上に置いて、冷め始めたコーヒーを口に運んだ。
こんな日が来るとは考えてもみなかった。
いや、漠然とそういう日が来る事は解っていたけれど、それが本当に現実の事になるのはいつだって先の事だと思っていたのだ。
10,000日。
あまりに数が大きすぎてその実感は薄い。
けれど27年と4カ月と考えれば、それはあまりにも長い時間だ。出会ってからはもっとになる。
もう人生の半分以上を共に過ごしたのだと思うとそれはそれで実感としてそうだと思う事も難しい。気付いたら、そう、気付いたらもうそんなに経っていた。
若い頃の彼を思い出す事は難しくはないし、今だって初めて会った時のあの瞬間の事は忘れてはいない。
けれど本当にそんなに長い間一緒にいたのかと思うとあまりにも実感がなさ過ぎて、いきなりタイムマシンで未来へ連れて来られたかのような気さえする。
あまりにも遠くて、これ以上ないほど魂を共にした人。
彼 浅倉大介はそういう人だった。
本当だったら今頃楽屋入りして彼のチェックの音を聞きながら軽く喉を温める程度、客席をうろつきながらテンションを高めているところだったと思う。
10,000日目を祝うため、最高のパフォーマンスが出来るよう、特別に増やした1曲のリハをやっていたかもしれない。
それがこんな状況で急にポッカリと出来てしまった自粛と言う名のオフに身体もテンションも持て余し気味だ。
こんな日だからいつもは考えないような事をつらつらと考え、本当は一緒にいるはずだったはずの人の事が余計に気にかかる。
今頃何をしているのだろう。
彼はどんな思いで、この日を迎えたのだろう。
ただがむしゃらに駆け抜けた最初の2年、決して語る事の出来ない空白の7年、そしてそこからの今・・・。
決して順風満帆という訳ではなかったし、失ったものも少なくはない。思うような活動が出来ない事もあったし、彼の思惑が解らなくなったこともあった。
彼を、泣かせたことも・・・。
何度も終わりがチラつく瞬間もあったし、事実半ば終わっているような状態の時もあった。
けれど何故か信じていた。必ず2人でまた、並んでステージに上がれる日が来る事を。彼の音で、歌える日が来る事を。
何かの予感のようにずっとその思いはここにあった。今も変わらずに。
きっとそれはオレよりも彼の方が切実に願っていたのかも知れない。決して口には出さないけれど、今ではそう思う。
彼の思いの深さを知った今とはなっては、オレの行動の数々がどれだけ彼を苦しめていたのか、過去に戻ってやり直せるなら決して彼を1人にはさせないのに。
ずっと強いと思っていた彼は、本当は自分の為には強くなれる人ではなかった。
誰かの為、守るべきもの、共に進むべき人がいる時には矢面に立つ事も決して臆する人ではないが、自分1人のことになると驚くほど弱い人だった。
自分が我慢して済む話は我慢している事すら微塵も感じさせないまま口を噤んでいたし、誰かのために矢面に立った時は決して弱音を吐こうとはしなかった。
その裏側で彼がどれだけ自分を傷付けていたのか、長い間オレは気付けずにいた。
その綻びを見つけたのはあの時だ。
もう12年くらい前になるのか、調度アルバムリリースを目前にしたあの事件。オレの軽率な行動から全てが瓦解しそうになったあの時。オレは初めて彼が茫然と声もなく泣いているのを見た。
当の本人さえ泣いている事に気付いていないかのようなその姿に、オレは今までの自分を呪ったと同時に彼の中に秘めていた本当の姿にこの人を失えないと強く気付かされた。
思えばあの時がこの気持ちを自覚した瞬間だったのだと思う。
いや、それまでも大切な人だったし好意を持っていた事は解っていたが、それまでのオレはどこか逃げ場所を作っておきたかったのだと思う。
彼からの仕事相手に対するもの以上の好意を向けられ、少なからずオレもその好意に応えていたとは思うが、ありていに言えば二股のような状態、完全に彼に傾くのをどこかで恐れていたのだと思う。
彼は彼で、男とか女とかそういうものではないと思いながらも、どこかで男であることに世間に対する後ろ暗さのようなものがあったのだろう。
人並みに芸能人らしさを気取って秘密の恋のスリルも味わいたかったのかも知れない。
こんなオレの身勝手な保身は誰を幸せにすることもなく手酷い仕打ちを食らって露見した。彼女にも申し訳ない事をしたし、何より彼を言い訳のしようもないほど傷付けた。
自分にとって何が一番大切なのか、誰が一番大切なのか、バカなオレはああなるまで目を逸らし続けていたんだ。
彼の優しさに甘えたままで。
それもこれも既に遠い昔のような気がする。
臆病な彼の心を開くのに要した年月を思えば昨日のような気さえするが、思えば彼は初めて会った時からずっと変わらずにそこにいてくれた。距離が変わって見えたのはすべてオレの心の持ちようなのだという事が今なら解る。
彼の深い愛情はこんなオレには勿体ないくらいで、だからその分、これからの人生で彼が気負わずに弱音を吐ける場所でありたいと強く願う。
彼がずっとそうしてくれたように、オレだけは何があっても彼の傍に変わらず居続けようとあの時誓った。
もしかしたらそんな贖罪では到底足りないのかも知れないけれど。
生ぬるくなったコーヒーカップをテーブルに戻すと再びスマホを手に取った。
彼はまだ眠っている時間かも知れない。どうしてもこの気持ちを伝えたくなって、しばし迷った後LINEでメッセージを送る。
“10,000日 ありがとう!これからもずっとよろしく!”
上手い言葉が見つからなくて、小学生の作文みたいだと苦笑する。彼が起きた後にこのメッセージに込めた思いが伝わればいい。
再びスマホをテーブルに戻そうとすると振動と共に軽やかなコール音が鳴った。
「起きてんの?」
着信の相手に驚いて答えると、何だか目が覚めちゃって、と耳元で笑う声がする。
『メッセージありがとね。』
柔らかい彼の声に心が満たされて行くのを感じる。あの短い文章に込めた思いを彼はきっと受け取ってくれたのだと解る。
『ホントは今頃、会場に向かってたのにね。』
「そうだね。まさかこんなに長引くとはね。」
『ホント悔しい。楽しみにしてたのに。』
ふてくされた彼の声。可愛らしい人だなと改めて思う。
『ヒロにも会えないしさ。』
不意打ちな彼の発言に思わず頬が緩む。それと同時に恋しさが募って耳元に響く声の主の存在が遠く感じられてしまう。
『だって記念日なんだよ?こんな記念日ってある?一緒にお祝いしたかったよ。』
「そんな事言ってもさ、ダメでしょ?だって。」
『健康なら大丈夫だもん。』
「解んないじゃん。潜伏期間かもしれないでしょ?オレ、やだよ、大ちゃん、コロナになったら。」
『ヒロ、コロナなの?』
「いや、解んないけどさ。オレ、自分がかかるのはいいけど、大ちゃんの命に責任持てないよ。」
電話口でため息交じりに言う美声の男に、そこは“オレが守る”とかって言うところじゃないのかよと頭の中で悪態をつく。
この男の優しさは時々過保護すぎて、まるで繊細なガラス細工でも扱っているかのような扱いに面映ゆくなる。
初めて会った時からそうだった。最初は体育会系の上下関係を順守しているせいで上にも下にも置かない扱いをしてくるのかと思っていたけれど、これがこの男の本質なんだと解るまでにそれほどの時間はかからなかった。
綺麗で優しくてどこかやんちゃで、本当に太陽のような人だと思った。
彼が笑っているのが好きだった。普通に生きていたら決して出会うはずのない人。彼のその声が僕達を引き合わせた。
最初に好きになったのは声だった。
これは当然と言えば当然の事なのかも知れないけれど、彼の声を聴いた瞬間、創造の歯車が動き出すのを感じた。その繊細な煌めきを今でも忘れられやしない。
思い悩んだ末、やっとの思いで口にした一緒にやりたいと言う申し出を“ホントに?やろうよ!”と瞬殺してくれたのも今では良い思い出だ。
彼のこの思いきりの良さに何度救われてきたか解らない。
彼は常に前へ前へと進む人。
それがどんなに遠回りな道になろうとも決して頭を下げる事はない。
しなやかで強靭で、でもどこか不器用で、そんな彼を好きになるのに時間なんて必要なかった。
彼の隣にずっと居たかった。僕だけを必要として欲しかった。
その思いが強すぎて彼の自由を奪い、がんじがらめにした挙句、訪れた空白の7年。身を捩るほど辛い時間だったけれど、今ではあの時間の意味も解っている。
10,000日、10,000日という長い時間、彼と居られたことは僕にとっては奇跡。
そして彼がそういう意味で僕の事を好きだと言ってくれた事も。
この性癖のせいで叶わない恋には慣れていたし、まして彼のように完全にノーマルな男がそんな事を言うはずがないと最初から諦めていた。
だからこそ音楽だけでいいから繋がっていたいと思っていたのだし、唯一無二の彼の存在を手放すまいと必死だった。僕も子供だったなぁと今となっては思う。
彼の書いてくる詩に一喜一憂し、この言葉が自分に向けられたものであればいいのにと何度も思った。彼の歌声に泣いた事もある。
こんなに1人の人を恋しく思ったのは初めてだった。
だから彼の口から思いを告げられた時、簡単には信じられず、嬉しいはずのその言葉を何度も何度も打ち消して距離を保とうとした。
けれどその度に彼はその距離を飛び越えて1人じゃない事を教えてくれた。甘える事を教えてくれた。
彼が好きだ。これ以上ないほど。
その思いは1秒ごとに更新して行く。
あたたかくて心地良くて、世界を美しく変えてくれる。彼がいる世界は色彩がとても鮮やかだ。
『大ちゃん?・・・怒った?』
電話口の向こうから控えめに訊ねてくる声。その表情や仕草が見えなくても解る。
「不要不急の外出は控えましょうなんでしょ。」
『人に会うの8割減らすんでしょ。』
「ふーん。僕は8割なんだ。」
『もう、大ちゃん。わがまま言わないの!会いに行ったら濃厚接触になっちゃうでしょ。』
「濃厚って・・・ヒロのエッチ。」
『そういう意味じゃないよ!ホントにするよ!!』
冗談めかした言い合いにどちらからともなく笑い声がこぼれる。冗談にしなければこの渇きを癒せそうもない事を互いに口にしなくても解っている。
忙しくて会えないのと会うなと言われるのとではこんなにも違う。
10,000日を過ごす間にこんなにも離れてはいられないようになってしまった。あの時もあの時もこんな未来が待っているなんて事、運命は教えてはくれなかった。
『大人しくしてるんだよ、大ちゃん。』
『・・・そっちこそ。』
『自炊の腕をあげる絶好のチャンスだと思って。』
『大きなお世話だよ。
あ、今日、9時からインスタライブ、お前のために弾くから忘れず見ろよ!』
『インスタライブ?何?それ。見方教えてよ。』
『ホント、機械オンチだな、ヒロは。』
『ハハ。
好きだよ、大ちゃん。』
『・・・どうもありがと!』
『だからオレが行くまで、いい子で待ってて。』
震える電波は吐息と共に10,000日の想いをそっと繋ぐ。
Love
lasts
forever・・・
END 20200412