<君がくれたもの>












異例の早さで初雪を迎えた東京の空はどんよりと灰色に曇っている。
薄い墨絵のような濁った空から舞い降りてくるのは真っ白な結晶。いつも不思議だなと思う。


登校途中なのだろう、雪にはしゃぐにぎやかな声が遠くに聞こえる。

ウトウトしていた。
昨日の疲れからか、連日気を張りすぎたせいか、あたたかい自分のものではない体温をさすりながら、いつの間にか眠っていた。

濡れた鼻で促すようにそっと呼ばれる。



「ごめんね、ジョン君。ちょっと寝てた。」



そっと頭を撫でてやれば嬉しそうに目を細める。
久し振りの穏やかな時間をジョンも感じているのだろう。いつもより甘えん坊になっている。そんなところも愛しい。


誕生日プレゼント代わりの長めのオフに海外旅行に出掛けたが、ジョンの異変を聞いて慌てて戻ってきた。
日本へ帰る飛行機があんなに長く感じたのは初めてだ。
先に逝った2人の事を思い出す。
頼むからどうか・・・。
何百回、何千回唱えたところでやっと飛行機は日本の地を踏んだ。
戻ってみるとベルカも異常を感じていたようで、ジョンの周りをずっとくるくる回っていた。僕を見つけると訴えるように飛び掛かってきて、ベルカをなだめるのにも一苦労だった。

ようやく落ち着いたベルカをブリーダーさんに預け、静かになった部屋で僕は久しぶりにジョンと二人きりの時間を過ごした。
幸い症状は快方へ向かい、僕もやっと胸を撫で下ろしたところだった。
きっと預けられたままになって心配しているだろうベルカを迎えに行ったら、この穏やかな時間はたちまち賑やかさを取り戻すのだろう。そう思うと、あのベルカのやんちゃぶりも愛しく思えた。



子供たちの声が遠ざかっていくと再び静寂が訪れる。
さほど降ってはいないとは言え、僅かに積もった雪が音を吸収しているのだろう。この静寂はどこか耳に優しい。



「静かだねぇ。」



ジョンの手足をさすりながらぽつりと漏らす。
実際、家にいてこんなに音を鳴らさない時間も久し振りだ。
ツアーのための打ち込みだとか楽興提供のためのレコーディングだとかやる事は山積みで、絶えずひっきりなしに人の出入りがある。
必然、家中に音は溢れている。それに加えてやんちゃなベルカ姫だ。こんなに静かになるのは明け方くらいのものだろう。
そう考えればなんて贅沢な時間なんだろう。

穏やかな時間の余韻に身を委ねながらジョンを撫でていると、不意に聞きなれたエンジン音が家の前で止まった。
そんな予定も約束もないはずだと自分の耳を疑ったが、この音を聞き間違えるはずがない。
ほどなく静寂の中にまるで彼の声のように通るインターフォンが響いた。
ジョンも気付いているらしい、寝そべったままだが尻尾を嬉しそうに振っている。
僕を見つめるその目にちょっと待っててと声をかけて、インターフォンを素通りしてそのまま玄関を開ける。冷たい外気と共にあたたかい声が流れてきた。



「さっむいよ、大ちゃん。早く入れて。」



間違えようのないその声の持ち主は僕の開けたドアからするりと入り込むと、うぅ〜寒かった、と暖房のきいた部屋の空気を存分に味わった。



「どうしたの?ヒロ。今日、別に何もなかったよね?しかもこんな朝早くから。ちゃんと寝た?」



そう言いながら靴を脱ぐスペースを空けてやると、冷気をはらんだままのその腕が僕を抱きとめた。
ヒヤリとしたのは一瞬で、徐々にぬくもりが戻ってくる。



「大ちゃんこそ、ちゃんと寝た?」



耳元で尋ねられる。



「今日も仕事あるって言ってなかったっけ?寝ないで行くつもりだったの?」



そう言って顔を覗き込まれて、充血した今は素の瞳を見つめられれば嘘はつけなかった。



「大丈夫だよ。僕、そんなにいつもしっかり寝るほうじゃないし。」



「昨日だけじゃないでしょ。」



ピシャリとそう言われて言葉に詰まる。



「大ちゃん。」



こつんとおでこをくっつけられて、行き場のなくなった視線に瞼を閉じる。
すると途端に思い出したかのように睡魔に襲われる。瞼が重い。いつでも体温がちょっと高いこの男はくっついたところから僕の体温も眠気を誘う体温にあげていくようだ。



「ほら、やっぱり寝てない。そんなんじゃいい仕事が出来ませんよ、大介さん。」



おどけてそう言いながら僕を抱えたままで靴を脱ぐと、勝手知ったる家の中へ僕の手を引いていった。



「ジョン君は?どう?」



「え?」



「具合。」



僕の言葉を待つよりも早くジョンを見つけたヒロは、ジョン君、と声をかけてそばに座った。
ジョンも嬉しそうにヒロを見上げて尻尾を振っている。
撫でて平気?とジョンと僕に聞きながらそっと頭を撫でてみせると、ジョンはヒロの膝に顎を乗せてくつろいだ様子を見せた。



「なんで言ってくれなかったの?水臭いじゃない。」



立ったまま二人を見下ろしていた僕にヒロがここに座りなと自分の隣をトントンと鳴らした。僕は呆けたようにその指を見つめていた。



「オレじゃあ頼りにならないかもしれないけどさ、オレだってジョンの事、大切に思ってるんだよ。」



なぁジョン、と覗き込むと鼻先を手の下に入れてもっと撫でろとねだる。それに笑ってヒロが答えるとジョンは再び気持ちよさそうに目を閉じた。
その光景があまりにも幸せで、僕はよく似た二人を見つめたまま立ち尽くした。
するとヒロの視線が僕を捕らえ、立ち尽くしたままの僕の手を軽く引いた。僕は素直にその手に従った。

博之のそばにぺたんと座り込む。



「オレは同じくらい大ちゃんも心配なんだよ。」



引き寄せられた手から背中に回された手が僕の背中をクイッと引き寄せる。
僕は抗うことも知らないままヒロの肩に身体を預けた。
そっと撫でてくれる手があたたかかった。



「・・・んだよ。」



「ん?」



「なにもできないんだよ・・・。なにもしてあげられない・・・。」



「うん。」



「解ってるんだよ、ちゃんと。ジョン君だって、もう歳だし、いつかはそういうこともあるって。だからいっぱいいっぱい、後悔しないようにって・・・。だけど、なんにも・・・、僕はなんにも・・・。」



「うん。」



ヒロの手がずっと優しく僕の背中を撫でてくれる事に、そのあたたかさに涙がこぼれた。ホロホロとこぼれるように後から後から溢れた。



「大ちゃん家に来るワンちゃんは幸せだね。こんなにいっぱい愛してもらえて。」



やわらかいトーンで微笑まれて、間近で見つめてくるその瞳を見つめ返した。



「泣き虫。」



笑いながらそっと涙をぬぐってくれる。



「心配かけたくないって気を使ってくれたのかもしれないけどさ、こういう時ほど、頼ってほしいんだよね、オレは。
そりゃあ大ちゃんみたいにワンちゃんの扱いに慣れてるわけじゃないけどさ、大ちゃんが安心して寝れる時間くらいは作ってあげられると思うんだよね。」



違う?と尋ねてくるヒロがだんだんとぼやける。きつく唇を引き結んで何とか堪えようとした涙が自分の意志とは反対に僕の視界を奪っていく。



「もう、泣かないの。ほら。おいで。」



クイッと手を引かれて僕はそのままヒロの安心出来る胸の中に捕らえられた。もう堪えることは出来なかった。



「大ちゃんはなんでも頑張りすぎ。そんなに抱えなくていいの。大ちゃんの悪いとこだよ。何回言っても聞いてくれないんだから。ほんと人の話、聞かないよねぇ。」



わざと大きなため息をつくヒロの肩に軽く拳で抗議する。



「それ、ヒロに言われたくない。」



泣き崩れたみっともない顔で下から睨みあげてやれば大仰に目を丸くして僕を抱えていた手を離す。



「ちょっと、そこで鼻かまないでよ。オレはティッシュじゃないんだから。」



「かんでやる。ヒロなんかティッシュ以下だもん。」



そう言ってわざとヒロの胸に顔を擦り付けてみせると、頭上からいつものよく通る笑い声がアハハと聞こえた。
照れ隠しも手伝って顔をあげられずにいると、そっとヒロの手が僕の肩に回された。



「少し寝なよ、大ちゃん。起こしてあげるから。」



「ヒロ・・・。」



「ジョン君もちゃんと見てるから。本当はベッドに行ってちゃんと寝てほしいけど、嫌なんでしょ?」



優しく覗き込んでくる瞳に小さく視線を伏せて答えると、仕方ないなと笑った。



「オレに寄りかかってていいから。ね。目、閉じて。ちょっと神経休ませてあげないと、大ちゃんの方が倒れちゃうよ。」



トントンと子供をあやすように刻まれるリズム。決してがっしりとした身体つきではないはずなのに、これ以上ないくらいに頼もしく感じる。



「ジョン君、どうしてあげたらいいの?」



僕に回したのと反対側の手でジョンの頭を撫で続けていたヒロが尋ねる。



「手足をね、さすってあげるといいんだって。」



「こう?」



ゆっくりと労わるようにマッサージをして見せるヒロに頷いてその様子をぼんやりと眺めていると、寄りかかったところからヒロの穏やかな鼓動が聞こえてくる。
とろりと襲ってくる睡魔に瞼が次第に重くなってくる。



「子守歌、歌ってあげようか?」



耳元に聞こえる笑んだ声。



「やだ。ヒロのキンキンした声じゃうるさくて眠れないもん。」



「ひどい言われようだな。こんな美声の主を捕まえて。」



「うるさい。黙って肩貸せばいいの。」



そう言って潜り込むようにヒロの肩口に頭を傾けて落ち着く場所を探し出す。



「こっちの子守歌でいい。」



「?」



「ヒロの、心臓の音。」



トクントクンと繰り返されるあたたかい音。
ヒロの手が僕の髪を撫でていく。



「オレはいつだって大ちゃんのために歌ってるからね。愛を込めて。」



「ちょいちょいムカつくんだよねぇ、ヒロ。」



わざとらしくキメてみせるのにそう応酬しながらも、もうヒロを見上げる気力がないくらいに瞼が重くなっている。
聞こえるのはヒロのゆったりとした心音と、僕の髪を撫でていく音。
きっとジョンもこんなふうに優しく撫でてもらってるんだろうなとぼやけた意識の片隅でどのくらい考えたのか・・・。



「寝ちゃった?大ちゃん。」



耳元で囁くように聞いてくるヒロの声。
起きてるよ、とその声に答えたはずだけれど、耳元の声は小さく笑って、



「おやすみ。」



僕の髪にそっと優しいキスをくれた。







   
END 20161129