<波間のくらげ>














もっととことんずるい大人になられた、そんな事を考えながら2人並んで座った。
そうするしか出来なくて、寒空の下、2人並んで座った。







 

気づけばいつの間にか限界はもう訪れていた。
忙しさは脳を麻痺させる。その麻痺が身体中に回って初めて何かがおかしいと感じた時にはもう遅かった。
逃れるすべはどこにもなくて、流されるままに毎日を過ごし、傷つかないように笑い、傷つけないように微笑むしかなかった。
微笑みは罪だ。
笑って済ませられることなんて本当は何一つなかった。けれど笑って済まそうとした。その事が怖くて。






浅倉は神経質に指先で机をはじいていた。無意識に。
その音はまるでメトロノームのように正確で、彼の神経が張り詰めているのだろう事はここにいるスタッフの誰もが何となく解っていた。
けれど口にはしない。それすらも憚られる得体の知れない張り詰めた空気がこの部屋を満たしていた。
誰も何も言わない。けれど明らかに何かが動いたのだという予感。
予感は波及し、小さな緊張が気づけばこの部屋に充満している。


誰かが忘れていったのだろう100円ライターを擦る音がやけに響いた。音の主は浅倉だ。
メトロノームのような指先のリズムはそのままで、器用にタバコに火をつけている。
表では決して見せないその姿。おおよそ彼らに日常の瑣末な事は無縁だった。
作られた印象。
限りなく虚像に近い実像。
ユニセックスを売り物にして、時にはアブノーマルさえも売り物にしてここまで上り詰めた。その実像はごく一部の人間にしか見せる事を許されない。
閉鎖的な空間。その事に辟易した時期はとうに過ぎていた。



チリチリと短くなるタバコの燃える音。静かに吐き出すため息。そんなものが気になるほど張り詰めた空間だった。
そんな緊張を破ったのもやはり浅倉だった。
この男にしては珍しいくらい癇癪にタバコをもみ消すと「来たら呼んで。」と一言残し、音の洪水が押し寄せるスタジオへと戻っていった。
そこで初めて誰からともなく息をつく音が聞こえ、辺りはごく普通の貸しスタジオのロビーの空気へ戻った。
スタジオではシングルのマスタリングが行われている。2人にとって最後のシングルだ。
実質最後のシングルになったのはほんの数時間前の事だったのだけれど、浅倉はその事をどう思っているのか、その内情を垣間見せようとはしなかった。嫌に落ち着いて見えるその姿に安部ですら何も言えずにいた。



数時間前、単なる連絡事項のように告げられた言葉。



「これを最後のシングルにします。」



表情を消した浅倉と俯いたままの貴水、そして初めて聞かされるその覆しようのない決定事項に安部を始めただ言葉を失った。
それ以上何も告げる気のない浅倉はお開きとでも言うように座を外し、俯いたままだった貴水はこの部屋を出て行った。
それきり、貴水は戻ってこない。
浅倉もこの場を動かない。
今までこんな事はなかったから誰もがどうしていいのか解らないまま、この緊迫した空間の中から逃れられずにいた。
何故突然そんな事になったのか、浅倉の言った事は本当に決定事項なのか、貴水はどこへ行ったのか。誰一人として答えを知る術はなかった。
恐らく答えを知るものは浅倉と貴水の当人だけである事は明白だった。















 

「何があったのよ。」



気まずいままではあったが予定の作業が全て終わり、スタジオを後にした車の中で安部が尋ねた。
結局貴水はあのまま帰ってこなかった。留守電に今日の作業が終わった事を残し連絡を待っている旨を告げた。返信はまだない。


バックミラー越しにチラリと視線を投げたが、窓の外を眺めたままの浅倉と視線は合わなかった。



「先の展開を模索中がいきなり最後ってどういう事なの?そんな話これっぽっちも聞いてなかったけど。」



視線を合わせようともしない浅倉に安部がズケズケと聞く。
長い付き合いだ、この程度の事ではお互いに怯んだりはしない。
答えを聞くまでは逃さないとでも言うような安部の気迫に結局浅倉が根負けした。



「もうね、限界なんだよ、いろいろと。」



「限界って何よ。」



「考え方の違い、とでも言っておけばいいのかな。」



浅倉は自嘲気味に小さく笑った。そんな答えに納得の出来ない安部はさらに追及する構えを崩さない。
そんな安部の追及に諦めに似たため息を漏らし、浅倉はポケットからタバコを取り出した。視線で吸っても良いかと確認し、薄く窓を開ける。



「で?本当のとこ、なんなのよ。」



交換条件とでも言うように追求を始めた安部に浅倉はタバコを吸い込みながらぼんやりと考えた。


実際のところ、言葉に出来ることなんてひとつもない。ただもう限界だったのだ。それしか他に言いようがない。
けれどそんな事が他人に解ってもらえるわけでもなく、それ相応の理由が必要になるだろう事は解っていた。

けれど、じゃあ何て?

飛び出したまま戻ってこない貴水、あの男に答えを求めるのは無駄だ。あの男はいつだってそうだった。何の答えも持っていない。そのくせ誰よりも一番答えに近いところにいるのだ。
結局はそう言う事だ。
もう限界だ。
このまま何も知らない振りをして続けていく事なんて自分達には無理だった。いや、貴水には、なのかも知れないが。



「ちょっと大介、聞いてるの!?」



焦れた安部がバックミラー越しに睨む。
そう睨まれても答えられる言葉なんてあるはずがない。結局当たり障りのない理由を告げるしかない。



「先の展開が見えなくなったって言ったでしょ。焼き直しをするつもりはないし、何か新しいものって思ってたんだけどね。何となくやりたい方向性がお互い変わってきちゃったのかなって。だからさ。」



「何よ。それだけの理由なわけ?そんなの前からそうだったじゃないの。」



「うん。そうなんだけどさ。良くも悪くも僕達、イメージがつき過ぎちゃった気もするしね。ここで一旦ゼロに戻しても良いんじゃないかって。」



「ゼロねぇ・・・。」



いぶかしむような目で見る安部に仕方ないよねって笑って見せて、浅倉は会話を打ち切るように再び窓の外を見つめた。


答えなんか一番自分が出ていない。続けられるものならいくらだって自分を騙してだって続けていきたいと思っている。
けれどそれすらももう無理なのだからどうする事も出来ないじゃないか。
あの貴水の目を見て「解った」と頷く以外に、自分に何が出来ただろう。




















 


「もう無理だよ。」



ポツリと告げた貴水の言葉は浅倉の心に重く響いた。
薄々は感じていた、貴水の精神がもう限界な事は。
この男は自分に嘘をつく事が出来ない。そこがこの男の良いところではあったのだけれどこんな時無性に腹が立つのも事実だ。
貴水の言った無理だと言う言葉が一体何に対してなのか、浅倉は理解しているつもりでいた。本人も本音を隠そうとはしていなかったし、恐らくそれで正解なのだろう。
エスカレートしていくアブノーマルな要求に貴水が笑えるボーダーラインはとうに超えていた。このところ触れる身体がぎこちなく強張っていた事を知っているのは自分だけだった。
浅倉はそれをとても遠い事のように感じていたし、浅倉自身もまた平静を装う事に神経を使っていた。
これはビジネスなんだと言い聞かせ、日常と混同しないようスイッチを切り替えていた。


浅倉はもうずいぶんと前から貴水を愛していた。
決して告げる事はないだろうし、告げてこの関係が崩れるくらいならギリギリのラインで共に歩む事を選んだ。それが浅倉の出した答えだった。
誰よりもこの男を輝かせられるのは自分だと言う自負もあったし、同時にまた誰よりもこの男を必要としているのも自分なのだと言う認識はこの男と出会った時からずっと浅倉の中にはっきりと存在していた。
恐らく相手を失って一番困るのは自分なのだろう。浅倉は口にこそ出しはしないが、ずっとそう思っていた。



「もう、無理だよ、大ちゃん。」



ため息をつく事も出来ないような顔で貴水はそう言った。
恐らく長い間考え続けてきたのだろう。その末に出した答えなのだという事は浅倉には痛いほど良く解ってしまった。
解らなければ頷く事もなかったのかも知れない。けれど解ってしまったのだ。仕方がない。
彼の事なら悔しいくらいによく解る。そんな自分を呪ってもみた。そんなになるまで彼を見つめてしまっていた自分を。
同時に自分をも拒絶されたような気がしてそれ以上、何も言えなくなった。
貴水が悪いわけじゃあない。そもそも告げる気などなかった思いだ。貴水が知る由もない。それこそ知られていたとしたら自分の間抜けさを呪っただろう。
それでも人間と言うのはわがままなもので、こんな時被害妄想ばかりが肥大していく。
自分をこんな形で拒絶するのか、そんなに疎ましかったか。そう問い詰めてしまいそうになる自分を浅倉は何とか食い止めた。
だから貴水がその言葉を発した時、いつもは直ぐに出るはずの言葉が一言たりとも出なかった。



「ごめん。」



何に対しての謝罪なのか、貴水は埋められない間を潰すようにそう言った。
自分達の間にこんなに気まずい空気が流れる事があるのかと、浅倉は半ば他人事のようにぼんやりと思った。

性格は間逆だった。それでも何故か気があった。
ユニットの相手だからと言うものだけではない。初めて見る自分とは違う種族の人間に興味が尽きなかったのかも知れない。
それで2年だ。あの出会いから2年だ。

何も答えない浅倉に貴水は視線をどんどん俯かせて行く。
この男はいつだってこんなふうに浅倉の答えを待つ。2人は対等でありながら、決して対等ではなかった。



「それは・・・。」



やっと口を開いた浅倉に貴水がピクリと視線をあげる。



「もうどうしても無理って事だよね。」



確認するように繰り返す浅倉に貴水は小さく頷いた。
そうか、どうしても無理なのかと抗う気持ちも失せた浅倉は貴水を前にそれ以上の思考を止めた。



「そうか、もう無理か・・・。」



間の抜けた浅倉の言葉に貴水は身体を小さくして唇を引き結んだ。
貴水の意思が覆らないことは貴水の目を見れば明らかだった。俯く姿とは対照的な決意した瞳。いつもぼんやりしているこの男には珍しい強さ。
浅倉は緊迫感のない一言を発したきり何も言わなかった。言えばきっと女々しい事ばかりになるだろう事が浅倉には悔しかった。
こんな時ばかり男らしい決断を下すなんて。
俯いた貴水を見つめながら、こんな時だというのに男らしい目の前の男にムカつくほど惚れ惚れしていた。



「大ちゃん・・・怒った・・・?」



沈黙に耐えられなくなった貴水がおずおずと尋ねる。



「わかんない。」



「わかんないって・・・。」



自分より背のあるはずの貴水が覗き込むようにして見つめてくる。



「怒ってるように見える?」



そう尋ねると貴水は視線を彷徨わせ困ったように小さく笑った。



「わかんないよ。大ちゃんが怒ったの、見たことないから。」



「そっか・・・。」



浅倉は笑ったつもりだった。けれどそれはただ片頬を歪めたに過ぎない動きだった。
怒っているのかどうか、浅倉には解らなかった。
怒るという事がどういう事なのか。そもそもこの件に対して怒る事が自分に許されているのだろうか。



「終わり、だね。じゃあ・・・。」



ぽつりと告げた言葉に貴水がビクリと肩を震わせた。



「終わりって・・・そんな。そういう事・・・なの、かな・・・?」



縋る様な目で見つめてくる貴水をぼんやりと眺め、そんな瞳をすることが出来るこの男をやっぱり狡いと思った。



「だって無理なんでしょ?そう言ったのはヒロだよね。」



「そうだけど・・・。」



「じゃあ、終わるしかないんじゃないのかな。」



浅倉は別に怒ったわけでもなかったし、責めているわけでもなかった。けれど貴水は自分の決めた決意の強さを打ち消すように瞳を歪めた。



「簡単に・・・言わないでよ。」



「簡単じゃないよ。」



「簡単だよ・・・。」



泣きそうな顔をする貴水の前で浅倉はただ黙って立っていた。
決定を下せるのはいつだって自分ではない事を浅倉はよく解っていた。最終的な決定権はいつだってこの目の前の男にこそあるのだ。
この男の望まない事を自分が出来るはずもない。彼はもう自分の手を必要としていないのだ。そんな相手に何が出来るというのだろう。
簡単な話だ、それは浅倉にとっては至極簡単な話だったのだ。
貴水は決して口にしないだけで、今までの多くの事を決めてきた。それを汲み取り、皆に伝えてきたのが浅倉だ。損な役回りだとは思うが、これも生まれ持っての性分なのだから仕方がないのだろう。貴水にはそういう事は向いてないし、浅倉もまた恐らく人に下された決断に唯唯として従う事は出来なかったに違いない。



「ヒロ。」



俯く貴水に声をかけた。



「もういいよ。」



そう言って浅倉は静かに笑った。限界だったのは貴水一人ではなかったから。




















 

終わりに近づくというのは何ともあっけないものなのかも知れない。
日々淡々と残された仕事をこなし、この先もこういう状態が永遠に続くのではないかと思う。
そう思いながら時折、もうこれで終わりなんだと途端に苦しい焦燥感に襲われ居ても立ってもいられなくなったりする。
終末の時間は何だかとても忙しない。
あれ以来2人の間で特別に交わした言葉はない。業務連絡のような会話と周りを慮ってのいつもの会話、それだけだ。
ラストライブに向けて集中しているような素振りで2人は互いの距離を測りあっていた。
貴水の目は、もう脇目も振らずに真っ直ぐだった。むしろ脇目を振る事を恐れているかのように真っ直ぐだった。そこにいつもの笑顔はあったけれど、本当の微笑みではない事を浅倉は知っていた。
他の誰もが気付かないだろう変化に浅倉だけは気付いていた。けれど何も言わない。それでいいと、このまま静かに終わって行けばいいと浅倉は思っていた。
貴水もまた、完全に集中しきれていない自分を感じていた。自らが切り出した事とは言え刻一刻と迫ってくる終わりの時間に怯えていた。戻せるならあの瞬間より前に、そう思ったところで時間を戻す事が出来ない事は痛いほど解っていた。
何処かへ進むしかない。そう思って決めた決断だった。
それでもこの決断が正しかったのか貴水には解らなくなっていた。


迷いは歌に出る。それが解らない浅倉ではない。
恐らく他の人には貴水のすべてのエネルギーをぶつけるような歌に気合を感じ取っただけなのかもしれない。けれどそれがそうではない事を浅倉は気付いていた。そうするしか出来ないからだ。ほんの少しでも気を緩ませたら貴水に歌うことは出来ないだろう。
感情を覗かせる事を恐れたような歌い方に浅倉は流していたシーケンサーの音を止めた。貴水の熱量だけが溢れる歌声が幾分かこぼれた。



「大ちゃん?」



軽く喘いだ貴水が訝しんで浅倉を振り返る。他のスタッフも一斉に浅倉を見たまま次の言葉を待った。



「そんな歌い方、ヒロらしくないよ。」



真っ直ぐに見つめ返して浅倉はそう告げた。その瞳に口に出す事の出来ない言葉を乗せながら。
成り行きを見守るスタッフの視線。そして逸らす事を許さない浅倉の視線。堪え切れなくなったのはやはり貴水だった。



「ヒロ!」



スタッフの誰かの声がスタジオを飛び出して行く貴水を引き留めたが、振り返りはしなかった。浅倉は驚いているスタッフにごめんねと笑顔を作り、貴水を追ってスタジオを出た。
ドアを開けるとそこに貴水の姿はもうなかったが、浅倉の耳には走り去る足音が聞こえていた。硬い皮の音、間違いなく貴水のものだ。小刻みなリズムは恐らく階段を上っているのだろう。
浅倉は音だけを頼りに貴水を追った。貴水を追いかけるのはもしかしたらこれが最後かもしれない、そんな風に思いながら。



「ヒロ。」



ビルの屋上で貴水は立ち尽くしていた。浅倉の声にさらに逃げ場を探して走り出す。が、もう何処にも行く場所はなかった。
雑居ビルの谷間、埋もれるようにはめ込まれた小さな屋上には何処からか漏れる灯りが青く、赤く点灯する。喧騒は遠く、時折疳癪なクラクションが声高に響いた。



「無理だよ。」



浅倉はそう告げた。かつて貴水が口にした言葉だった。けれどその意味合いは貴水のものとは違うものだ。
じっと瞳を見つめたまま貴水に向かって進む足音に貴水は反射的に視線を走らせ行く場所がないと解っていながらフェンス伝いになおも走った。



「逃げるなよ!!」



常に穏やかだった浅倉の怒鳴り声。貴水の足はその事に驚いて止まった。振り返る暇もなく、貴水を囲う様に浅倉の手がフェンスに伸びた。



「逃げ場所なんてもう何処にもないんだよ!!」



間近で聞く浅倉の初めての怒鳴り声に貴水の心が折れる。貴水は力を失ったようにフェンスにもたれかかった。
俯く貴水の横顔を見つめたまま浅倉が小さく息を吐く。



「終わりにしたいって言ったのは、ヒロだろう・・・。」



崩れるように足元に蹲った貴水を見つめて浅倉はそれだけの本音をこぼした。
らしくない事をしてしまったと浅倉本人も思っている。けれど逃げ続ける貴水の姿に思わず声を荒げる事しか出来なかった。
子供の癇癪のようだと浅倉は思う。けれど逃げ続ける貴水だってそれは同じ事だと、どこかで浅倉はそう思っていた。

カシャンと軋むような音を上げてフェンスが貴水の体重を受け止める。遠いクラクションはこの場に似つかわしくない能天気な音色。
沈黙をまといながら浅倉が貴水の隣に腰をおろす。フェンスは同じように小さく軋む音を立てた。

貴水は顔を上げる事が出来なかった。恐らく今の自分はいびつに歪んだ情けない顔をしているだろう。
逃げ場所なんてもう何処にもなかった。だから無理だと、最後の救いを求めるようにそう告げたのだ。
これ以上はもう無理だ。
その言葉の中には行く場所を失った絶望と、もしかしたらそこから救い出してくれるのではないかと言う希望が詰まっていた。

終わりになる事は覚悟していた。それは正しいと思っていた。
けれどこの間際に来て『終わる』という事の本当の意味を痛いほど感じずにはいられなかった。
やはり自分はただ逃げ出したいのだという思いが貴水を締め付けた。何もかも今すぐ放り出して、こちらの気が済んだら元通りにふらりと戻りたい。そんなズルい考えを抱かずにはいられなかった。そんな事は到底不可能だと知りながら。

逃げたかったのは何だったのか、それを突き詰めて考える事は貴水には恐ろしすぎた。
だから考えないようにしていた。
けれどどこかでもう解っていたのだ。自分が逃れたいと思っているものの在処を。


シュボッと耳慣れた音が俯いたままの貴水の耳に届く。次いでチリチリと燃える音の後に浅倉のため息にも似た息をつく音が聞こえた。
慣れた浅倉のタバコの香りだ。
俯く視界の端に指先でタバコの灰を落とす浅倉の手が映る。
神経質なくらいに深爪に切り揃えられた小さな爪。華奢な身体の割にごつごつと節くれだったその指。今までいくつものメロディを紡ぎあげてきたその見慣れた手。
オレはいつからかずっと、その手を特別な思いを持って見つめていた。

その手がオレに触れるたび苦しかった。その体温を感じるたび、たまらない気持ちになった。
どうかこのまま、もう少しだけ・・・。
自分の感情に嫌気がさした。
こんなのは間違っている。
彼に知られる訳にはいかなかった。だからいつも通り笑っていた。彼の隣で笑うしかなかった。


短くなったタバコを浅倉はコンクリートをなじるようにその指で揉み消した。
無造作に投げ捨てられたそのタバコを貴水はじっと見つめていた。青や赤のライトが切り替わるたび、投げ擦れられたフィルターは与えられるままに色を変える。
自分もこんな風に与えられたままに色を変えられたら、事態は少しは違っていたのだろうか。その無機質な感じを貴水は羨ましく思った。

何も口に出せない貴水の代わりに口を開いたのは浅倉だった。



「らしくないよ。ヒロ。」



さっきとは別人のように穏やかな口調だった。



「あんな歌い方はらしくない。僕達には最後までaccessでいる責任があると思うよ。」



「・・・ごめん。」



「ん。もういい。解ってるから。」



カシャンとフェンスを揺らして浅倉が立ち上がる。途端にひんやりとした空気が貴水を包んだ気がした。



「戻ろう。みんな待ってる。」



そこにはいつもの穏やかな浅倉しかいなかった。
そんな浅倉を茫然と見上げ、何故か脳の奥がキリキリと痛むのを貴水は感じた。
差し出された手はあの日のように真っ直ぐに自分を待っている。その手を貴水は掴むことが出来ない。



「ヒロ。」



「・・・ぅして。」



口をついて出てきた言葉を塞き止めるように唇を噛んだ。そんな貴水の様子を浅倉は黙って見つめていた。
浅倉の中でも同じように何度となく繰り返されてきた言葉。


『どうして』


その答えが簡単に出るものならばこんな結末を迎える事はなかったに違いない。答えが出ないからこそ何度も繰り返さずにはいられなかったのだ。
ただ見つめているだけがどうして罪だと言えるだろう。傍らにありたいと願う事がどれほどの罪だというのだろう。
見返りなど求めてはいない。ただそれだけの事が彼にとって重荷だというのなら、一体自分はどうすればよかったのだろう。

浅倉は差し出した手をぎゅっと握ると、貴水の手を握る事なく下ろした。
きっともうこの手を彼が取る事は二度とないのだろう。
あの時握り返してきた彼の手の強さを今でもはっきりと覚えている。真っ直ぐに自分を見つめてきたあの瞳を自分は一生忘れる事はないだろう。



「戻ろう、ヒロ。」



浅倉は出来るだけ穏やかな声で言った。残された時間はあとわずか。せめて最後まで笑っていたかった。
貴水はゆっくりと身体を起こすとフェンスを掴みのろのろと立ち上がった。
貴水の顔を赤いライトが照らしている。フェンスの先の喧騒を見つめながら小さく貴水が言った。



「ズルい大人に、なればよかったのかな。」



笑う事に失敗した片頬がわずかに上がる。



「・・・そうだね。」



浅倉もまた喧騒を見つめて答えた。



「でも、きっと無理だったね。」



背後から聞こえる浅倉の声に貴水は今度こそ哀しく笑いながら答えた。



「・・・そうだね。」



ズルい大人になれていたら、終わる事はなかったのだろうか。己の気持ちを隠したまま上手く笑う事が出来ていたら、この先も続けて行けただろうか。
答えは出ない。
ただ少なからず限界は訪れていたのだろう。己の気持ちか、2人の関係か。

歪んだ形になってまで相手を求める事は出来なかった。
きっと恐れていた、自分の中の彼を壊してしまう事を。
臆病者の自分はそれ以上踏み込む事を止めた。だからきっとズルい大人なのだろう。



2人は、しばらく黙って喧騒を見つめていた。
これが2人きりで過ごした最後の夜だった。











 

20140321 END