<贖罪>













「貴方がそれを望むなら、オレはそれで構わないよ。」




真っ直ぐに向けられた迷いのない瞳が痛かった。


まだ自分の手は小さく、大人達の引いたレールからその手を取って抜け出すなんて事は出来ず、ただこのくらいの抵抗しか出来なかったあの時。彼は真っ直ぐに僕の目を見て、「貴方が望むなら」そう言ったのだ。
答えは狡いものだったと思う。すべてを僕に押し付けるやり方で、自分の意思は何一つ告げずに。
だけどそんな状況を作り出したのもまた僕でしかなく、僕には彼を責める資格もあろうはずがなかった。


あの時・・・。


手を離す事を選んでしまったあの時、彼は一体何を思っていたのだろう。
裏切られたと思っただろうか、興味が失せたと思われただろうか。
僕はいまだにあの時の彼の気持ちを聞く事は出来ない。
それは僕にとって痛くて、苦しくて、あまりにも恐ろしい問いかけだからだ。
彼は、あの時からずっと、僕を責めたりしない。その事が僕にはとても大きな罪悪の代償に思われた。




毎年この日が来るのが本当は怖い。自分の罪を知らしめるような日だから。
僕の手から離れた彼は苦しんで苦しんで、その苦しみの果てに優しい歌を書いた。
苦しかった。
胸と言わず身体のすべてが軋むように痛かった。
泣く事は許されないような気がして、じっと耐えた。
許しを乞う事は出来なかった。恐らく彼はそんな事すらもその笑顔ひとつで許してしまうに違いない。少しだけ困ったような顔で「もういいんだよ」なんて言うのかも知れない。
けれど僕は僕自身が許せない。そんな風に自分だけ許しを乞うて楽になろうとしている自分が許せない。
誰よりも苦しむべきは僕だったのに。



彼に消えない傷をつけた。
例えどれだけ時間が流れ、今の関係がこれ以上なく良好なものだったとしても、僕の付けた傷が消える事はない。その事実が風化するはずはないのだ。
彼は死に物狂いで上がってきた。決して口には出さないけれど彼の瞳の奥にあるその優しさはきっとそういう事なんだろう。
深い深い悲しみの上に今の彼がいる。その事を僕は決して忘れてはならないのだと思う。
























 



久し振りの完全プライベートな逢瀬がこの日だった事は偶然だったのか、彼が指定した日にちで一番近い日がこの日だった。
夏のツアーも終わり、これからしばらくは互いのスケジュールを埋める日々。
夏の名残を埋めるようにしっとりと汗ばんだ肌に顔を寄せた。



「眠れない?」



耳元に落とされた掠れた声に彼が眠っていなかった事を知る。
程よく空調のきいた中で汗ばむような事をした後だ。互いの肌の感触が馴染みすぎる程馴染んでいて怖い。
小さく身じろぎし、顔を覗き込むようにして伺うその瞳を直視する事は出来なくて肌になつくような振りをしてその視線から逃れた。
彼の大きな手がそっと髪を梳く。



「また何か考え事?」



クスリと笑うその声が「仕方ないな」と言っているようでいたたまれない気持ちになる。
どうしてこの男はこんなにも優しくするんだろう。優しく出来るんだろう。



「ねぇ、大ちゃん。」



俯けた顔を晒すように頬にかかった髪をそっと除ける。途端にそこに視線を感じてぎゅっと目を瞑った。



「なぁに?何をそんなに考えてるの?」



優しい声がそれを問う。答える事の出来ない問いに口を噤む。



「今日の大ちゃんは心ここにあらずだね。酷くしていいって言ったり、何かを我慢したり。さっき「ごめん」って言ったのは、何で?」



彼の視線が痛いほど見つめてくる。



「大ちゃんは何を謝ってるの?」



朧気な意識の中でそんな事を口走っていた自分に腹が立つ。
どうして僕は、また自分の事しか考えていない。



「ねぇ、大ちゃん。」



僕の身体をずり上げるように抱え直されて、合わせたくない視線が否応なしに合う。
告げる訳にはいかなかった。どんな事をされてもそれを口に出してしまえばそれは結局は許しを乞う事になってしまうから。
ぐっと唇を噛み締める。
すると彼の指がその唇を揺らすようになぞった。



「そんなにしたら血、出ちゃうよ。」



柔くなぞった後に小さなキスを落とす。そんな事してもらう価値もない僕に。
唇を噛み締めたままの僕に彼は大きくため息をついた。



「もう、大ちゃん。」



するといきなり抱え込まれるように天地が変わり、彼の下に組み敷かれる。



「何を依怙地になってるのか知らないけど、オレと一緒にいるのにそんな態度取ってたら怒るよ。」



じっと瞳を覗き込まれて、たまらずに顔を逸らす。その背けた顔を再び戻されて今度は視線だけ逸らした。



「・・・怒っていいんだよ。」



「?」



「怒ってよ。ヒロにはその権利がある。」



やっとの思いでそれだけ言うと再び口を噤む。訝しんだ彼が体重をかけないように気を使いながらも僕の上に重なってくる。



「どういう事?大ちゃん、オレに怒られるような事したの?」



視線だけで頷く。



「オレには心当たりなんてないんだけど。」



そう言いながら本気で悩み出した彼にぽつりと答えた。



「今日、何の日だか、ヒロの方が知ってるでしょ。」



「え?今日?」



しばらくいろいろと頭を悩ませていたらしい彼はようやく一つの考えの前で立ち止まった。



「もしかして・・・オレのソロデビュー日の事・・・?」



今度は解るように頷く。



「覚えててくれたんだ。ありがとう。」



目を細めて喜ぶ彼の顔を直視出来ない。
本気で喜んでいるのだろうか。僕にとっては贖罪の日でしかないこの日、決して彼の中からは消えない過去。
あれほど苦しめただろう僕をどうして彼はそんな優しい目で見つめているのだろうか。
僕を恨んだりはしなかったのだろうか、僕を憎んだりはしなかったのだろうか。
ただ一人、突き放すように歩き出した僕を、何も言わずに見送った彼はほんのわずかに指先も動かさぬままに、じっと、じっと泣きたくなるような優しい笑顔を浮かべて。
あの時の彼の顔が消えない。
あの時の優しく微笑んだあの彼が消えない。



「僕を・・・恨んでよ。」



「大ちゃん・・・?」



彼に残した小さな傷は、むしろ僕を蝕んで、傷などないはずのこの胸が痛む。
本当に痛いのは彼の方なのに、僕には痛む権利さえないはずなのに。



「どうしてヒロはそんなに優しいの・・・?」



背けたはずの視線が滲む。
この視界のように滲んだまますべてがなくなってしまえば、僕は楽になれるのだろうか。
優しいこの彼の腕から抜け出す事が出来たなら、僕は楽になれるのだろうか。

あの日「信じて」と願った彼の言葉を誰よりも信じたかったのは僕自身。
けれどそれは僕には許されない思い。あの優しい笑顔を置き去りにして背中を向けた僕には望むことの許されない願い。
それなのに彼は、こうして微笑みを返そうとしてくれる。


滲んだ視界は輪郭を結ばない。
それでいい。あの微笑みを見るのは辛すぎる。


不意に彼の体温を近くに感じて滲んだ視界に力を込めると目の前に彼の困ったような優しい笑顔があった。


あぁ・・・。



大きな手が僕の目元を拭い滲んだ視界を洗い流す。



「そんなになるまでため込まないでよ。オレはそんなに頼りない?」



そうじゃない。



「じゃあ何?ちゃんと言ってくれないと解んないよ。」



解らなくていい。解られたくない。この心の奥にある淀んだ思いなど、彼に見せたくはない。
ダメだと解っていながら許してほしいと願ってしまう狡いこんな思いなんか、彼の目に触れさせたくない。

思いは、年月を重ねるたびに重くなる。
今が満たされていれば満たされているほど怖くなる。
もし今度、また同じ事が起こったら、僕は彼をまた傷付けるのだろうか。
僕のこの手は、彼を守るだけの力を持てただろうか。
守れないならせめて、共に逃げるだけの力を持てただろうか。
そんな事が贖罪になるとは思わない。けれどせめて、せめて、もう二度と・・・。



「大ちゃん。」



彼の声が優しく僕を呼ぶ。
僕は彼を抱き寄せ、苦しいくらいにしがみついた。
隔てるもののない彼の素肌。彼のぬくもりと、彼の馴染みすぎた匂いを肺いっぱいに吸い込む。
この手をもう二度と離したくない・・・。



「ごめん。本当にごめん。」



何に対して謝っているのか、彼は聞かなかった。けれどきっともうそれでいいと思ったんだろう。
しがみついた僕をそっと抱きしめて、いつものあの優しく穏やかな声で僕の言葉に答えた。



「うん。解った。もういいから。」



良くなんてない。
僕は首を振る。
すると彼は僕と視線を合わせ、あの時と変わらず真っ直ぐな瞳で告げた。



「大ちゃんを、許すよ。だから、もう一度、信じて。」



贖罪の言葉は、もう口にすることが出来なかった。

彼はきっとあの時も同じ気持ちで「信じて」と歌っていたのかも知れない。そんな事は解らない。きっと彼だって僕の中にあるこの淀んだ気持ちなんて本当のところ解っていないだろう。


僕はこの先もきっとこの日が来る度に思い出し、彼に心の中で詫びながら生きて行くのかも知れない。
彼の隣に居る事が苦しくなる事もあるだろう。
けれど彼はその度にきっと歌うんだろう。その澄んだ瞳で、あの時と同じように真っ直ぐ見つめて「信じて」と。
だから僕はその言葉にどれだけ苦しくなろうとも、ここに居続けようと思う。「信じて」と歌う彼の隣に。
それが僕に出来るたったひとつの贖罪で、たったひとつの失えない愛だから・・・。


 





END 20130901